癌日記

【癌日記】最初の入院

今日も、腹の底に吐き気が沈殿している。抗癌剤の副作用である。
そう、俺は癌持ち(大腸)になったのだ。
判明したのは、なんと64歳の誕生日当日である。
それからまだ3ヶ月も経っていないのだが、すでに3回も入院したので、病院のベッドでいくらでも時間があったはずだが、入院中は何も記録していなかったので、今さらではあるが、記憶をたどって書くことにする。

青天の霹靂

まずは病源発覚から最初の入院までの経緯から書いていこう。

そもそも前の週から便秘気味、いや完全に便秘だった。いくらトイレに座っても、便通はいっこうに回復せず、おかしいとは思っていたのだ。普通は下腹が張ってくるはずが、どうも、もっと上、胃の下あたりが張っているように思えた。
おそるおそるコーラックを飲み(俺はむしろ下痢状態を恐れるたちだ)、最終的には浣腸も試してみたが、それでも何も出ないという異常事態に陥っていると悟ったのが、金曜日の夜だった。
もう胃腸クリニックは閉まっている時間で、市立病院に駆け込んでも救急扱いで当番医師が胃腸科とは限らない。
どうするどうする、と迷ったあげく、やはり苦しいので車を飛ばすことにした。

運が良かったのは、当番が胃腸内科医だったことだ。医師はレントゲンを撮り、今日から入院できますか?と言った。
青天の霹靂である。妻にメールした。

じつは俺たち夫婦は、2か月前に息子(次男)を喪くしており、前月に葬式を済ませたばかりだった。妻は泣き暮らしており、それどころではないのである。俺が病院を訪れるのをためらったのは、そういう状況も踏まえてのことだった。
しぶしぶ、という感じで妻が寝間着その他を持ってきてくれたが(俺が車で来てしまったためにタクシーで)、すでに俺は麻酔をかけられ、内視鏡を突っ込まれて緊急手術に入っており、話をすることはできなかった。

目が覚めてから教えてもらったことによると、どうもステントというものを入れたらしい。
ステントとは、体内の狭くなった血管、消化管、気管などを内側から広げ、血流や体液の流れを改善するために留置する網目状・筒状の医療器具である。要は何か(癌だ)が腸を詰まらせているためにうんこが出なくなっているのを、ステントを入れてグッと広げて、うんこの通り道を作ったわけである。
といっても、それから数日たってもうんこは出てこなかったので、ステントを入れる時点で便を取り除いたのだろう。大変な量だったのではないかと医師が気の毒になった。

ステントは、翌日だったか、入れたものが開いていないということで、ステントの中に別のステントを入れるという再度の内視鏡オペになった。腸壁穿孔のリスクを説明されるが、選択の余地はない。

入院生活始まる

そういうわけで手術後は人事不省に陥り、目が覚めるとベッドで、10日ほどの入院生活が始まった。

まずは絶食である。水は飲んでもいいが、ジュースなどはダメだという。何も食べないからか、便通は始まらない。そこで喉に管を通し、胃の中のものを出すということが始まった。
点滴と、口からの胃のチューブを胸のところで溜める袋をぶら下げて2日ほど。これは苦しかった。

じつはこの段階で、俺は煙草を吸おうとしてこっぴどく怒られている。
なぜバレないと思ったのか自分でもよくわからないが、4人大部屋の廊下側ベッドをあてがわれた俺は、ある日隣の窓際ベッドが空いたことを知り、そちらの仕切りカーテンを開けて外の明るい光を楽しんでいた。そして、廊下側のカーテンが閉まっているから大丈夫だろうと思って、そもそも病院に来たときに上着のポケットに入れてあった煙草に火を点けたのである。
病床というものは、実に頻繁にナースがやって来る。
ひと吸いもしないうちに、「なにやってんですかっ!」という鬼のような声が背中に投げつけられ、高校生のように叱られた。「先生に報告しますからねっ!」と言われ、医師からも「強制退院させますよ!」と大目玉をくらい、煙草を隠し持っているかもしれないということで、ロッカーと床頭台(テレビと引き出しと冷蔵庫が一体化した多機能台)を取り上げられてしまった。
医師によると、病院にはあちこちに酸素があるので火気厳禁で、「病院が爆発したら、ど、どうするんですか!」ということだった。
たぶん、かなり珍しい騒ぎだったのではないかと思う。

病院での生活は、総じてもの珍しい体験ではあった(俺にはこれといった入院経験がない)。
たとえば、まあ絶食の後だったということもあるが、まずいと言われる病院食は意外と悪くないことを発見した。
入院しているのは基本的に老人が多い。カーテンのこちら側で患者とナースのやりとりを聞いていると、じつによく面倒をみてくれている。なぜか大竹しのぶの映画「後妻業」を思い出した。そういうナースがいるのではないかと思ったのである。

後半、点滴の針を刺したまま(もちろん管は外して、針部分をラップでぐるぐるまきに補強する)、シャワーを浴びたときは、めくるめく快感だった。
浴室は介護用の浴槽などがある広い部屋で、なんだここで煙草が吸えるんじゃねえ?と思ったりした。

入院どころではない状況

ところで、なぜヒマがあるにもかかわらず記録をしていなかったのか。
それどころではない状況で、とてもじゃないが、そんな気になれなかったのである。

最大の懸念は、もちろん、退院時にいったいいくら請求されるのかということだった。もともと県民共済の保険に入ってはいたのだが、掛け金を払えなくなり、前年に契約解消していた。万事休すである。
払えない場合は後払いにできるのだろうかと心配した。

さらに、延滞している支払先からの電話が日々かかってくる(だって月末なのだ)。
「実は緊急入院しましてね、今はちょっと……」と俺が言うと、たいていは引き下がってくれた。国税局からもかかってきたが、なんとか言い逃れた。
一方、車の車検をどうするという問題も起こっていたが、これは妻のカードでなんとかしてもらった。あとで聞くと、実家にも援助してもらったようだ(この月の生活費は、とうとう渡せなかった)。

入院費は、最終的には67,660円であった。高額療養費制度ばんざい。
とはいえ、それとてそんな現金の余裕はなかったのだが、クレカで決済できた。
夏前だったか、所持している唯一のクレカがなぜか勝手にゴールドにランクアップして送りつけられており、利用限度額がそれまでの20万円から100万円に増額されていたのである。利用限度額はもうないと思っていたので、ベッドでそれを確認したときには一気に肩の力が抜けた。

切迫した経済状況とは別に、長男の引っ越し問題も並行していた。
死んだ次男と二人暮らしをしていた長男が、アパートを引き払って帰ってくることになったのだ。
もとより家賃や光熱費を払っていたのは俺だったが、息子の独立を言祝ぐような気持ちで家電や家具なども買い揃えており、我が家にはとても入りきらないので、撤退は至難の業と思われた。

退院までの経過

今回の入院は、癌の摘出を行うためのものではなく、手術に向けての検査入院ということであった。
日々、レントゲンだの胃カメラだの内視鏡の検査を行い、尿路結石と虫歯治療でしかレントゲンを撮ったことがない俺はおののいたが、胃カメラと内視鏡は麻酔をかけられたので、目覚めると元のベッドという気楽さである。

以下は入院3日目の医師との会話である。

医師 食事どうですか?食べていて。おかゆさん、流動食、ほぼ水みたいなやつ。

 満足してます。

医師 よかったです。お腹に痛くはなってないですか? お通じも大丈夫そうですか?

 大丈夫そうです。

医師 明日から食事を固くするかどうかちょっと悩んでるんですけど。まあ、ちょっと固くしてみますかね、そしたら。それで様子見ますか。

 そうですね。

医師 はい、じゃあ明日また呼吸機能検査とか、心エコーとか、手術に向けての検査とか入りますので、よろしくお願いします。今のところ、何か困ってることあります? 大丈夫ですか。わかりました。

その後、食事が始まり、かつコンスタントに下剤(マグネシウム剤)を飲んでいるにもかかわらず排便が止まったりして、振り出しに戻るのではないかと肝を冷やしたが、大腸カメラ検査のための下剤を飲んで解消されてほっとしたりということがあった。便秘はその後も(今も)ずっと恐怖である。

手術は翌月か翌々月と言われ、とりあえず退院できることになった。前日にまた医師がやってきて、今後の話を聞かされる。

  1. 外科のカンファで、昨日の大腸カメラで、さらに奥にもうひとつ癌があるとされた。(これまでに把握されていたのは、手前にポリープ、その奥に癌があるということだった)
  2. そのため、再度内視鏡検査が必要である。
  3. 癌の生検は完了していないが、ステージ3、転移性は低いと評価している。摘出手術の内容についてはまだ何とも言えないが、人工肛門などの必要性は低いと考えている。
  4. 内視鏡検査は混んでいるので、最短で10月8日になる(翌週)。
  5. 現在の体調には問題ないため、一度退院し、外来で10月8日に日帰りで検査をすることにしよう。
  6. 明日10時の退院は変更なし。

ということで俺は退院した。

病院の敷地を出たところで、性懲りもなく、返してもらった煙草に火を点けた。
が、期待したほどうまいわけもなく、激しいめまいにふらついた。

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