【実況】巨人の星

第89回|栄光のピッチング(沢村栄治物語)

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【前回(第88回|ロボット対人形)のあらすじ】
「俺たちは野球ロボット」とオズマに指摘された飛雄馬は激しく動揺。湘南で青春を謳歌しようとするも野球以外の無力さを痛感。絶望の果てに多摩川グラウンドで野球人形として生きる宿命を受け入れた。

病院におとなしく戻った飛雄馬、ピッチングの真似をしているところを看護婦に見つかる。
花形や左門のことを思い、早く練習に戻りたくて焦る飛雄馬だが、ボールで院長室の窓ガラスを割ってしまう。
そして院長の長い説教が始まるのであった。

この院長は沢村栄治の旧友とのことで、昭和18年のシーズン半ばに撮った写真が机に飾ってある。

翌昭和19年秋、沢村は3度目の赤紙で出征し、院長は駅まで見送りにいった。
行き先は米軍上陸が近いと言われるフィリピン、しかし台湾沖で魚雷を受けて藻屑と消えた。

沢村は30歳だった

沢村は30歳だった

沢村は昭和9年秋、17歳で日米野球(スコアボードには全米軍対全日本軍とある)に参加、鉄人ルー・ゲーリックに1点をとられたものの、ベーブ・ルースとも対決し、三振をとる大快投。
昭和11年12月、東京州崎球場でタイガースとの首位決定戦で3連投をこなす。
リーグ戦で24勝4敗、最高殊勲選手第1号、ノーヒットノーラン第1号、1試合三振奪取15など記録王である。
(州崎球場というのは大東京軍の本拠地で、東京瓦斯の所有地だったらしい。海が近くカニが這いずり回っていたといわれ、満潮時にはグラウンドが海水につかってコールドゲームになったとか。1936年開場、1945年には既に材木置場となっていた。所在地はこのへん
日華事変が起こった翌昭和13年、最初の赤紙が来て沢村は中国大陸へ。

記録フィルムを見せるために黙り込む二人

記録フィルムを見せるために黙り込む二人

手榴弾投げは連隊一で、80メートル飛んだという。

「妙に肥った」沢村が帰って来ると、巨人では川上・千葉・吉原が活躍していた。

星野「もう食べないんですか、まだ一膳しか食べていないのに・・・」
沢村「もうおなかいっぱいなんだ…」
院長「さすがは沢村、彼は食事を制限していたんだ」
おかわりを我慢しただけじゃないかwww
ダイエットを頑張ってカムバックした沢村だったが、また赤紙が来る。
「ええっ!」と驚く飛雄馬だが、さっき三度目と言ってたじゃん。
「昭和16年10月、太平洋戦争の始まる二ヶ月前だった・・・」

た、太平洋戦争・・・!

た、太平洋戦争・・・!

なんでそこで驚くwww
沢村が派遣されたのはミンダナオ島、わしも今度ばかりはダメかと思ったね。
(出征先をなんで知っているのか)

しかし昭和18年1月、沢村は再び帰国。

時節柄のユニフォーム

時節柄のユニフォーム

そのころの巨人は水原・三原・川上・吉原・千葉がすでに出征、残っているのは須田博と名前を変えたスタルヒン(この人はロシア革命の亡命者)・中尾・白石。
「世間では、目下5連覇の巨人が今年は優勝できないと噂している、俺は投げたい」
沢村はそう言ったというが、戦時下だというのに暢気な発言なんじゃないだろうか。
主将になって試合に出た昭和18年、沢村の調子はいまひとつでスピードは往年の半分、阪神に打たれまくり、その後も打たれまくったという。
しかしマラリアが再発し、灯火管制のもと苦しむ沢村。
戦況はますます悪くなり、沢村は工場で働くようになる。
「飛行機を作るのが面白くって、野球よりよほど爽快です」と語る沢村に、「ウソをついてはいかん」と迫る院長。
しかしその翌日、沢村に三度目の赤紙が来たのだった・・・

院長と飛雄馬は海を見に外へ――
断崖絶壁だが、ここはどこの病院なんだww
「今、沢村は何をしていると思う?」
沢村英治は投げています、深い深いこの海の底で・・・

こわいわ!www

こわいわ!www

<おれがバカだった」と反省してみせる飛雄馬。 「戦争にとられることもないのに、先生の言うことを聞かなかった・・・俺、1年ぐらい棒にふったっていい!

心にもないことを言う飛雄馬

心にもないことを言う飛雄馬

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【次回予告】
退院した飛雄馬はオズマ来日の報に動揺し「人間」としての価値を示すべく年俸倍増を要求。さらに孤独を埋めるため豪華なクリスマス会を企画し、伴や宿敵、明子を招待するものの、当日誰一人現れずパーティーは惨敗。オズマの幻に「ロボットに祝祭はない」と嘲笑され、荒れ狂う飛雄馬の心に再び深い闇が落ちた。(第90回|折り合わぬ契約)

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