映画1980年代の映画1986年の映画

緑の光線

4.5
マリー・リヴィエール(緑の光線) 映画
マリー・リヴィエール(緑の光線)
エリック・ロメール監督による1986年のフランス映画。原題は「Le Rayon vert」。1986年、ヴェネツィア国際映画祭・金獅子賞受賞作品。「喜劇と格言劇」シリーズ第5作。引用された詩は”Ah,que le temps vienne…Où les cœurs s’éprennent”(ランボー)。

緑の光線の感想

懐かしや、30年ぶりの再見。いや10年ほど前にも放送されたか。ロメールのミューズ、マリエ・リヴィエールが演じるヒロインは、今見ても、まことにめんどくさい女。完璧な「満月の夜」の次に好きな映画だが、映画館で見たときには緑は見えなかった気がする。

緑の光線の見どころ

ロメールと撮影監督ソフィー・マントゥーのコンビは、本作で“フィクションの中のリアリティ”を徹底的に追求した。
固定カメラではなく、微細に揺れる手持ち撮影を多用することで、観る者はまるでデルフィーヌ(マリー・リヴィエール)の隣で休日を過ごしているような臨場感を味わうことができる。
多くのシーンは複数のキャラクターの動きに合わせてカメラが柔らかくパンやチルト。台本の一部が即興であることと連動し、“会話に耳を澄ませるカメラ”として機能している。
ロメールは人工照明を極力排し、小型クルー&軽量機材で刻々と変わる夏の光を捉え、太陽光や日陰、曇天をそのまま受け入れた。とくに「緑の光線」を映し出す夕暮れのシーンは、色温度が時間ごとに変化し、空のグラデーションの中に微かな緑が現れるのをじっくり見せている。
「光を演出する」のではなく、「光が演出している」映画なのである。

演技はアドリブなので俳優の動きは予測不可能である。そこでカメラは被写体を完璧に追わず、時に視界の外へと外れることで、“観察者の視点”を獲得している。
ロングショットを多用し(特に浜辺や街中)、被写体の孤立感と、都市や自然の空間の広がりを対比させた。中間距離では2ショットや3ショットを採用し、会話中も俳優全員が映り込み、カット割りせず“同時性”を体感させることに成功している。

さらに現場録音を重視し、波の音、風、街のざわめきがすべて映像の一部となるように取り込んだ。音が空間を構築し、カメラが見ていない「画面外の世界」を観る者に想像させた。

デルフィーヌの服や小物には淡い緑や青が多用され、映画全体のトーンと呼応している。色彩は意図的に控えめだが、終盤で一瞬だけ“超現実的”な彩度が上昇し、自然界の緑色が物語の感情的クライマックスに昇華している。

本作はカメラの存在を消し、光と空気に物語らせた映画である。だからこそ、ラストの“緑の光”は神秘ではなく、現実の中の奇跡として立ち現れる。

「緑の光線」の系譜

本作におけるロメール的美学を受け継ぎ、独自に進化させている現代作家としては、韓国のホン・サンス、日本の是枝裕和が挙げられる。
ホンは、ズームとロングテイクで“偶然のリアル”を捉え、ロメールの即興性をより尖鋭化させているし、是枝は、家庭の空気感と繊細な人間ドラマにロメールの観察者の視点を注ぎ込み、日本的情緒と融合させている。
3人は共通して“日常の些細な瞬間に宿るドラマ”を描くが、視点・手法・感情の温度はやはり微妙に異なる。3人の作品を比較することで、「ロメール的映画作法の現代的な変奏」を浮き彫りにしてみよう。

“自然な会話”とカメラの聞き耳

三者とも「完璧に制御しない会話」の美学を持つが、ホンは演出でズレを強調し、是枝は調和を重視している。

  • ロメール(緑の光線)
    即興的な台詞と、ハンドヘルドの柔らかい追尾。俳優の動きを完全に予期せず、カメラは「観察者」として会話の流れを見守る。
  • ホン・サンス
    ロングテイク × ズームが特徴的。『それから』(2017)などでは、2人の会話を固定カメラで捉え、必要に応じて唐突にズームイン/アウトしている。即興的な台詞のズレや繰り返しによって「人生の偶然性」を強調した。
  • 是枝裕和
    『海街diary』『歩いても歩いても』などの群像劇的な会話で、カメラが360°移動して空間内の人間関係を把握させる。ロメール同様、俳優に自由度を与え、カメラが「現場の空気」に合わせて動く。
自然光と日常の美学

ロメールの光は心理の変化、ホンの光は時間の偶然性、是枝の光は情緒の器である。

  • ロメール
    人工照明を排し、夏の太陽、曇天、夕暮れ**まで自然の光で撮影して、光の変化が時間と心理の移ろいを映し出す。
  • ホン・サンス
    これも自然光を徹底使用し、陰影の強い光も躊躇せず取り込み、生活感のある現実を映す。室内の窓から差し込む光で、人物の孤独感を表現する。
  • 是枝裕和
    『誰も知らない』では東京のアパートに差し込む夕陽をそのまま活用した。太陽光を「家族の温もり」のメタファーとして用いることが多い。
空間と距離感の演出

ロメールの距離感は「観察者」、ホンは「神の視点」、是枝は「家族の一員」。

  • ロメール
    ロングショットで被写体と背景を同列に置き、孤立感と世界との接続を両立させる。人物は時にフレームから外れる。
  • ホン・サンス
    会話シーンはテーブルを挟んだ2ショット固定。ズームで距離感を調整する。俯瞰や遠景で、人間の関係をミニチュアのように見せる。
  • 是枝裕和
    室内では障子・壁・ドア枠越しのフレーミングで、キャラクター間の心理的距離を示す。ロングショットは少なく、観客に寄り添う中間距離が多用される。
環境音と音の余白
  • ロメール
    波音、風、街のざわめきなど現場音が主役。BGMはほぼなし。音が「画面外の世界」を感じさせる。
  • ホン・サンス
    BGMなし。会話の合間の沈黙や鳥の声が気まずさや時間の流れを強調。
  • 是枝裕和
    環境音と静かなピアノ曲を併用。『そして父になる』などでは、音が感情の媒介として使われている。

ロメールの“光と空気に語らせる美学”は、ホン・サンスでは“人間関係の不条理”に、是枝裕和では“家族の情緒”に転生している。

緑の光線のあらすじ

デルフィーヌは20歳前半、恋の理想は高く、昔からの男友達も、新たに現われた男性もなんとなく拒んでしまう。独りぼっちのヴァカンスを何とか実りあるものにしようと胸をときめかせていた。
7月に入って間もなく、一緒にギリシアでヴァカンスを過ごす女ともだちとの約束が急にキャンセルになり、デルフィーヌは途方に暮れる。周囲の人に慰められ、女ともだちのひとりは彼女をシェルブールに誘ってくれたが、シェルブールでは独りで海ばかり見つめていた。8月に入り、山にでかけた彼女はその後再び海へ行き、そこで、太陽が沈む瞬間に放つ緑の光線が幸運の印だという老婦人の話を聞く。
「太陽は赤・黄・青の光を発しているが、青い光が一番波長が長い。だから、太陽が水平線に沈んだ瞬間、青い光線が最後まで残って、それがまわりの黄色と混ざって私たちの目に届く」(ジュール・ヴェルヌ「緑の光線」)
しかし結局、何もなくパリに戻ることにした彼女は、駅の待合室で本を読む青年と知り合うことに。初めて他人と意気投合し、思いがけず自分から青年を散歩に誘うと、海辺を歩く二人の前で、太陽が沈む瞬間の緑の光線が放たれた。

緑の光線を観るには?

緑の光線のキャスト

緑の光線のスタッフ

製作:マルガレート・メネゴス
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ソフィー・マンティニュー
音楽:ジャン=ルイ・ヴァレロ
編集:マリア・ルイサ・ガルシア
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