冬のなんかさ、春のなんかねの感想
ファーストインプレッション
今泉監督のものは「アイネクライネナハトムジーク」ぐらいしか観ておらずよく知らないが、「杉咲花の撮休」というオムニバスに参加しているので、本作は杉咲に当て書きしたものだろうと想像する。そうでなければ成り立たないのだ。
「アンメット」であらためて見出されたように、何かを食べている杉咲には、ほとんど魔力のようなものがある。本作ではビールやらレモンサワーを飲んでいるのだが、まるで液体を噛み砕いているかのような風情には、思わずヤラレてしまう。
ドラマは「“考えすぎてしまう人”に贈るラブストーリー」を標榜するもので、二人の小説家、二人の美容師がメインで登場する。杉咲はきわめて不誠実で自己中心的なヒロインを演じるのだが、このプロットがどう展開するかは予想がつかないものである。
実際、どのようにしてこのドラマは終わるのだろうか。
冬のなんかさ、春のなんかねはドラマファンにどう受け止められているか
ここで、このドラマがどう受け取られているかを見てみよう。
今泉力哉監督が脚本・監督を務めていることから、「ものすごくハマる人」と「苦手な人」で感想が真っ二つに割れている(賛否両論ある)のが現状のようだ。ここまではっきりと意見が分かれること自体、ひとつの事件である。
【絶賛派】空気感とリアルな会話劇に浸る「今泉ワールド」ファン
ドラマチックな展開よりも「日常の延長」のような空気感を好む視聴者は、概して絶賛である。
- 「会話の解像度が高すぎる」
- 「セリフっぽくない、本当の会話を盗み聞きしているみたい」
- 「相槌の打ち方や、言いにくいことを言うときの間(ま)がリアルすぎて凄い」
- 演技力を称賛
- 「杉咲花と成田凌の掛け合いが自然すぎて、アドリブか台本かわからない」
- 「杉咲さんの『面倒くさいけど憎めない』絶妙な演技が光ってる」
- 雰囲気が好き
- 「何も大きな事件は起きないけれど、ずっと見ていられる心地よさがある」
- 「深夜に一人で静かに見たい、贅沢なドラマ」
【拒絶派】主人公の性格や演出が合わない「エンタメ求む」層
一方、テレビドラマに「わかりやすさ」や「テンポ」を求める視聴者には受けていない。
- 主人公(文菜)へのイライラ
- 「主人公がいわゆる『サブカルこじらせ女子』で見ていてしんどい」
- 「『好きって何?』と考えすぎてウジウジする姿に共感できない」
- 「めんどくさい女すぎて、相手役(成田凌)が可哀想に見えてくる」
- 演出への不満
- 「ボソボソ喋るので聞き取りにくい(字幕がないと辛い)」
- 「長回し(カットを割らない撮影)が多すぎて、映像として単調で眠くなる」
- 「ドラマとしての盛り上がりに欠ける」
【気まずい派】リアルすぎて直視できない「リビング視聴」層
今泉監督作品特有の「生々しい会話」により、特殊なダメージを受けている層も存在する。
- 家族と見られない
- 「カップルの会話がリアルすぎて、親と一緒に見ていると謎の気まずさが流れる」
- 「ベッドでの会話や、生々しい痴話喧嘩が『覗き見』しているようでドキマギする」
- 自分に刺さりすぎて辛い
- 「自分の過去の恋愛の失敗を見せられているようで、古傷が痛む」
- 「『あるある』すぎて、見ていて恥ずかしくなる」
総括すると、「わかりやすいヒット作(考察系や痛快系)ではないが、刺さる人には深く刺さる『スルメのようなドラマ』」という感じか。じっくり画面に向き合う視聴者ほど評価が高い。
これらは、今泉監督の目論見通りと言っていいだろう(監督から思わぬNGを乱発されて戸惑ったと杉咲花がどこかで語っていた)。
「何も起きない日常会話を、杉咲花という稀代の女優がどう演じるか」を楽しむ作品であることは間違いない。「ながら見」には向かない。
杉咲花演じる土田文菜のキャラクター像
杉咲花演じる主人公・土田文菜の台詞(モノローグ含む)をいくつかピックアップし、そのキャラクター像を分析してみよう。土田文菜とはどんな女なのか。
対象とするのは次の台詞。
- 「まっすぐ“好き”と言えたのはいつまでだろう?」
- 「失いたくないから好きな人とはつきあわない」
- 「始まったら終わる、付き合ったら別れる。だから本当はもう誰とも付き合いたくなんてないのに」
- 「だから私は、好きにならない人を好きになる」
傷つくことを恐れる「恋愛の理論武装家」
文菜には、小説家という職業柄からか、自分の感情を俯瞰し、言葉で定義しようとする「頭でっかちな恋愛臆病者」の面がある。
- 「失いたくないから好きな人とはつきあわない」という矛盾
本当に大切な人を失う痛みを知っている(あるいは極度に恐れている)ため、本気で惚れた相手とは距離を置き、自分が傷つかない「安全圏」にいられる相手を選ぼうとする防衛本能か。 - 「好きにならない人を好きになる」という歪み
この台詞は非常に屈折している。「情熱的に好きになってしまうと、失った時に壊れてしまう」から、あえて「熱狂しない、穏やかで適度な相手」をパートナーに選ぼうとする、一種の「諦め」や「妥協」を「大人の選択」と言い聞かせている危うさか。
安定への焦りと、本能的な「揺らぎ」への渇望
第1話の状況は、美容師の佐伯ゆきお(成田凌)との出会い、関係の始まりが描かれたが、文菜の心は常に「二律背反」の状態にある。
- 「始まったら終わる」という虚無感
新しい恋が始まるキラキラした瞬間に「終わり」を想像すること。コインランドリーでの出会いや音楽(ミッシェル・ガン・エレファント)の趣味が合うといった「運命的なシチュエーション」を楽しみつつ、どこかで冷めた自分が「どうせ終わる」とブレーキをかけている。 - 安定に対する挑発
安定した関係に対して「それ楽しい? 不安の中で揺れてたほうが楽しくないですか?」といった旨の台詞がある。
これは、ゆきおという「優しくて(おそらく)自分を傷つけない相手」との穏やかな関係を築こうとしながらも、本能では「ヒリヒリするような痛みや情熱」を求めてる自分を持て余していると言える。
……ということから、第1話からは、文菜が「過去の恋愛による疲弊」と「寂しさ」の間にいることが読み取れる。
彼女は、成田凌との関係を「失っても大丈夫な(本気になりすぎない)恋」として始めようとしているフシがあるが、物語の構造上、「好きにならないつもりだった人を、本気で好きになってしまい、恐れていた『失う怖さ』に直面していく」という展開への、壮大な前フリ(フラグ)である可能性もある。
冬のなんかさ、春のなんかねのあらすじ
小説家の土田文菜(杉咲花)は、なんとなく寂しいその空間が好きで近所のコインランドリーをよく利用する。ある冬の夜、音楽を聴き、<思考を整理するためのノート>に言葉を書き連ねつつ洗濯が終わるのを待っている際に、店の洗濯乾燥機が壊れたために訪れた美容師の佐伯ゆきお(成田凌)と出会う。文菜のイヤフォンから音漏れしていたミッシェル・ガン・エレファントのファンだというゆきおと他愛もない会話をした文菜はゆきおの美容室についていく。
