荒野のダッチワイフの感想
めちゃくちゃである。都電が走り、60年代の新宿と渋谷が映り、ゲキガ的なカットがつらなる。いとも簡単に拳銃が撃たれたりするというだけではなく、錯綜した台詞やストーリー、極度のクローズアップといった<実験> がいかにもゲキガ的なのだ。
のちに「ルパン三世」の台本を書くようになる大和屋竺の作だが、モンキーパンチがつくりあげた無国籍性は、大和屋によって逆に新たなゲキガとして路線づけられたような気がする。
手塚治虫は漫画に映画的描写を導入したが、ここでは逆のことが起こっているのだ。
もっとも、それを映画的感動と言うこともないが……
荒野のダッチワイフの見どころ
本作は、大和屋竺監督・脚本による、ピンク映画の枠を借りた異色のハードボイルド作品である。
大和屋がピンクとノワールを融合させ、「殺し屋もの」として仕立てた本作は、単なるエロ表現にとどまらず、ハードボイルド+アヴァンギャルドという独自の世界観を構築している。ジャズのアバンギャルドな音楽(山下洋輔カルテット)が、乾いた荒野と主人公の狂気を彩る。本作においては、音楽は単なるBGMではなく、主人公の狂気や緊迫感を増幅する生きた演出要素と言える。
冒頭の「一本木への二丁拳銃連射」で展開されるのは、ショウ(港雄一)の内なる狂気の象徴。その後も決闘は「午後三時」と信じてやまない彼の決意と妄想が現実に絡み合い、“時間”を巡る不条理な緊張感を際立たせる。
主演の港雄一は、ピンク映画出身でありながら強烈な個性を放つ存在だった。やくざ役から性的狂気まで幅広く演じた腕が光り、本作でも冷酷かつどこか脆い殺し屋像を体現している。
誘拐・凌辱された恋人を奪還すべく雇われたショウは、依頼主への淡い情を抱くものの、その裏には恋人の死への復讐心がある。曖昧な動機と狂気が交錯する展開が、“救済”とも“破滅”ともつかない結末へとなだれこんでいく。
冒頭・終盤の荒野と、中盤の都会や倉庫など限られた室内空間との対比が印象的。
本作は、大和屋竺の『裏切りの季節』に続く監督第2作であり、「殺しの烙印」など清順作品に見られる、ナラティブの破綻や幻想と現実の境界ぼかしが見られるという点で、大和屋の作家性が鮮明に表れた作品だ。
ハードボイルドな殺し屋ドラマ、狂気と復讐の心理劇、ジャズと銃声の融合、非線形な語り口──これらを意図的に組み合わせることで、独特なカルト的価値を持つ作品。大和屋竺の「異端作家」としての魅力を知るうえで、必見の一本と言える。
荒野のダッチワイフのあらすじ
拳銃使いの殺し屋ショウ(港雄一)は、ある日、不動産経営者のナカ(大久保鷹)に仕事を依頼される。ナカの恋人サエ(辰巳典子)が誘拐されたのだという。主犯格の男がナイフ使いの殺し屋コウ(山本昌平)だと知ったショウは、コウに殺された自らの恋人ミナ(渡みき)のため、彼への復讐を心に誓う。やがて再会したショウとコウは翌日の「三時」に決闘する約束をして別れるが、女が殺された因縁の「午後三時」と思い込んでいるショウを、コウは「午前三時」に急襲した。