鈴木先生のあらすじ
中学校の教師である鈴木’は、『ごく普通』の生徒たちの心の問題に向き合うことを自身の教育方針として、自分の受け持つクラスや教え子たちの周りで起こる些細な、ときに重大な事件の数々を誠実に、情熱的に対応している。しかし、その一方では教え子の一人である小川蘇美に対する歪んだ欲望や交際相手である麻美との関係など、自身の心の問題にもひたすら悩む日々を送っている。そうした鈴木の内面を饒舌にかつ克明に描写していく。
鈴木先生の感想
第1話|最後まで挑戦的でいられるか?
今季の学級運営モノは「ハガネの女」(小学校)、「高校生レストラン」(高校)、「アスコーマーチ」(工業高校)、そして本作(中学校)である。相変わらず多い。ゴールデンである21~22時台の12本中3本で25%、23時台まで入れると13本中4本(31%)となる。ドラマ視聴者の4分の1強がこの層だということか。
たしかに、古くから、ドラマは学校という共同体で共有され、口コミの温床(温床という言葉が悪い意味にしか使われないのはなぜだろう)であったりしたが、学校という場所では、今でも「昨夜のドラマの筋」が話題になったりするものなのだろうか。
子供といっても小学生と高校生ではだいぶ違うが、扱っている問題にそこまで幅があるわけではなく、その意味で「ハガネの女」を単純に小学生並みのドラマと断ずることはできないが、本作を見た結果、まさにそれほどの差が二つのドラマにはあり、「鈴木先生」は圧勝していると感じられた。
これは原作の力の差でもあるが、プログレッシブカメラを駆使して陰翳でうまく効果を出している演出や、乾いた脚本などを見ても、スタッフのやる気が感じられるという点で、本作は期待できると思った。
原作を読んでいないので、あの「セカンドバージン」の長谷川博己の教師モノという予備知識だけで、正直、惰性で見始めたものなので、これは嬉しい驚きであった。
長谷川は、学級運営においてある教育理念の実験を行おうとしていると臼田あさ美(なぜか処女であることを長谷川に打ち明ける)に明かす。
詳細は不明だが、この実験は「不良や問題児がいてこそクラスは活性化する」という常識を打ち破るものだと説明される。
この実験には小川蘇美(土屋太鳳)という生徒が必要であり、長谷川はわざわざクラス決め会議で小細工までしていた。
誰でもそうと気づくことだが、「不良や問題児がいてこそクラスは活性化するという常識」とは、学級運営物ドラマの常識にほかならない。ドラマ「鈴木先生」は非常に挑戦的である。
初回に起こったのは、中学2年男子が小学4年生女子がコンドームを使ってセックスしているというセンセーショナル事件で、しかも話を聞いてみると、男の子は中学に入った頃から年上の子にセックスを教えられ、それから手当たり次第に相手を変えてきたが、誰とも長くは続かなかった、と長谷川博己に打ち明けるので、女の子の母親である手塚理美や健康な体育教師である山口智充のみならず、ドラマを見る側も思わず呆気にとられてしまうが、ドラマはそれに構わず淡々と進むので小気味良い。
この事件を「俺はどう裁くのか」と長谷川は繰り返し自問したあげくに結論を出すのだが、ここで「裁き」という言葉が使われている通り、長谷川の指導は「大岡裁き」を思わせる、奇妙に論理的なものである。ここが原作の読ませどころなのだろう。
こうした論理の積み重ねと、長谷川が実践しようとしている「実験」がどのように結びついていくのか、ということがこのドラマの展開を支えるダイナミズムであると思われる。
うまい気の惹き方だが、この挑戦的な始まりに見合う展開を最後まで堪能できるのか、見守りたいと思う。
第2話|鈴木先生は官僚的か
今週も面白かった。
先週でドラマの手法を理解していたので、謎を最後まで引っ張り、謎明かしのハードルを限界まで上げる長谷川博己の思考を追うのは楽しかった。
謎とは、出水正が給食中にカレーをグチャグチャにかき回しながら、「ゲリミソだな、これは…ニンジンも未消化だ」とつぶやいたりして、向いの席の中村加奈をはじめとしてクラスメートの不興をかった理由である。
出水正の父親は大学で教鞭をとっており、家の中ではきちんとした躾がなされているようなので、なぜそんなことをするのかわからないのである。しかし、この躾けられているということが謎解きのための伏線になっている。
長谷川は出水正から5日間の猶予を与えられて、この謎に取り組むのだが、はじめから理由はわかっているような気がしているのにはっきりと言葉にならないと述べている。つまり手がかりはすでに、すべて画面に映っているということだ。挑戦状を突きつけられているのは視聴者のほうで、このドラマは非常に古式ゆかしいミステリなのである。最後で明かされた真相は完全にフェアなものであった。
長谷川は前回のような“大岡さばき”を披露しない。クラスで話し合うこともしない。事実だけを淡々とクラスの生徒たちに明かし、各自で考えるように促す。
一方、樺山あきらという大食いの女子生徒が、みんなが残すスブタをひとりで美味しい美味しいとおかわりをしていたが、やはりスブタはメニューとしては人気が低いため、来月から給食のメニューからはずされるという給食便りが配布される事件が起こる。樺山がスブタを好んでいたのは、死んだおばあちゃんが作っていたスブタと同じ味だったからで、樺山はメニュー廃止に泣くほどのショックを受ける。
職員会議でこの問題を話し合い、長谷川博己と田畑智子は校内でアンケートをすることになった。
結果、どうしてもスブタを食べられない生徒は1クラスごとに4人ほどしかいないことがわかった。多数決でスブタの廃止が決まりかけるが、初回でいきなり多数決をとっていた富田靖子が、この多数決には反対する。富田の論旨は、スブタはあくまでもメインメニューであって、それを食べられない生徒が少なくともクラスに4人いるのなら、廃止するのが当然なのではないかというものだ。至極もっともな意見であり、長谷川も田畑もこれに賛成する。
こうして、学級運営モノとしては異質な結果が引き出されることになった。
ひとつは安易な“話し合い”の回避、もうひとつは“数字に隠された意味の発見”である。
これまでの学級運営モノにおいて、教師はとにかく話し合うことで問題を解決しようとしてきた。その一方で、生徒の多数の意見を汲み取るという体制的な役割もはたしてきた。鈴木先生の運営はこのふたつを使わないという点でじつに信頼できるものであった。ただし、このやり方にはどこか、高度に官僚的なにおいを感じる。
一方で、土屋太鳳の存在が不気味に大きくなっていく様子も描写されていた。どこへ向かうのかわからないが、先が楽しみである。