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愛の、がっこう。

4.0
木村文乃(愛の、がっこう。) ドラマ
木村文乃(愛の、がっこう。)
愛の、がっこう。は、2025年7月10日~9月18日にフジテレビ系「木曜劇場」枠にて放送。主演は木村文乃。

愛の、がっこう。の感想

夏ドラマを今頃になって一気見。いやー、面白かった。
ラウールは非常に巧かった。クライマックスで木村文乃ともみ合うシーンとか、かなり迫真だった。

本作のモチーフは、言葉を読めない、書けないということ。それを教えるということである。

ドラマはいつだって、言葉を使わずに意思を伝えるのは難しいということを私たちに伝えようとしてきた。

たとえば聾唖のような障害(「君の手がささやいている」「愛していると言ってくれ」「Silent」)や、すでに言葉の届かない死者との関係(「海のはじまり」)がモチーフとして与えられた場合、このメッセージは極限まで純化することになる。

そういう意味では、本作はディスレクシア(識字障害)という珍しいモチーフが発見されたドラマであった。これは限局性学習症(SLD)の一種として、精神疾患に含まれる領域であり、その意味ではともさかりえの「君が教えてくれたこと」(2000)、ユースケ・サンタマリアの「アルジャーノンに花束を」(2002)、香里奈の「だいすき!!」(2008)の系譜に属すると言えるだろう。

もっとも、本作をいわゆる障害物として観ていた者は少ないと思う。
読み書きができないカヲル(ラウール)の生きづらさは、必ずしも障害があるためではなく、親という存在による軛が影を落としている。そうした目で見直してみると、本作には、思いのほか、登場人物と「親」との関係がきめ細かく描写されていることに気づくはずだ。生きづらさを体現しているのはカヲルだけではない。

そうした作業は、ことによったら、同じ作り手による「昼顔〜平日午後3時の恋人たち〜」(2014)を観る者が、不倫という文脈を運命的な恋に読み違えることに似ているかもしれない。

沢口夏希の場合

まず、本作のプロットを最初に動かすのは、ミッション系私立女子校の教師である小川愛実(木村文乃)が担任を務めるクラスの生徒、沢口夏希(早坂美海)のホストクラブ通いという事件である。

娘がカヲルというホストに大金を使っていると知った夏希の母親は、その責任を学校に押しつけ、「今後一切夏希に連絡しない」という念書をカヲルから取るよう、愛実に一方的に要求する。

こうした大人に対する批判的な描写は、学園ドラマではお馴染みのものである。娘の心の空虚さや寂しさに無関心で、問題が表面化すると世間体を気にして過剰に介入する母親の態度は、夏希が家庭内で感じているであろう孤独を浮き彫りにする。

ところが本作においては、この事件が愛美とカヲルの運命的な出会いの導入となっている。

結局、沢口夏希は愛実との関わりやカヲルからの諭しによってカヲルへの依存から卒業し、自らの足で立つことを決意してアメリカの大学を目指すという新たな目標を見つける。親の価値観や期待から離れ、自らの意志で未来を選択するようになる夏希の変化は、愛実とカヲルの物語とも共鳴していく。

香坂奈央とカヲルの場合

共依存の「毒親」となるりょう。

次の親子は、カヲルと、彼を育児放棄した奈央(りょう)だ。
この母親は未婚でカヲルを出産し、貧困から逃れるように姿を消したと説明され、現在は再婚して新たな家庭を築いているが、カヲルに金を無心する典型的な「毒親」である。
当初、りょうはカヲルの過去の傷を象徴するものとして描かれる。カヲルが必死で稼いだ金を当たり前のように要求し、その態度がカヲルの自己肯定感を引き下げ、誰にも心を開けない性格を形づける。
そして中盤以降は、単なる「悪人」ではなく、彼女なりの不器用な愛情や、現在の家庭を守ろうとする必死さが描かれることで、歪な共依存関係(ただし、さほど目新しいものではない)が浮かび上がる。

小川誠治と愛実の場合

次は、経済的には勝ち組であるはずの木村文乃と、見えない「鎖」で彼女を縛る酒向芳の父親。

「無神経な男」を演じさせたら右に出る者のいない中島歩(木村文乃の婚約者)。

酒向は大手製薬会社の役員で(コンプライアンス担当役員というのが皮肉だ)、古い価値観を娘に押しつける。教師という職業も、銀行員の川原洋二(中島歩)との結婚も、酒向がレールを敷いたのである。その言動はすべて娘を思う「善意」から発せられており、娘の幸せを願っていると公言もされ、酒向自身も最善の道を提示していると信じているが、愛実の意志や感情を無視した一方的な支配である。

「愛実がカヲルに文字を教える」ことを始めたことで、この抑圧された親子関係にも亀裂が生じていく。
カヲルとの交流が、愛実にとって父親の価値観から自立し、「自分の人生」を歩み始めるための闘いの始まりになっている。
終盤、父親の価値観が社会的な「正しさ」や「普通」の象徴としてカヲルの前に立ちはだかるシーンは、この物語の核心の一つと言える。

松浦小治郎とカヲルの場合

沢村一樹の表情の読めない演技が光る。

親子関係ということでは、カヲルが働くホストクラブ「ジョーカー」のオーナー・松浦(沢村一樹)が、カヲルの父親であるかのようなほのめかしについても触れておこう。
松浦は読み書きのできないカヲルを拾い、他のホストからの嫉妬やいじめから彼を守っており、そこには明らかに父性の温かさが演出されている。カヲルの母親・奈央がかつて松浦と面識があったことを示唆する描写や、松浦がカヲルの過去を知っているかのような言動は、この「父親かもしれない」というサスペンスを増幅させた。カヲル自身もまた、自分を気にかける松浦の存在に、無意識のうちに父親の面影を求めていた節がある。
こうしたことから、カヲルが最後に実の父親という「拠り所」を見つけることで救われるという予定調和的な着地を予想した視聴者は少なくないはずだが、物語はその期待を裏切り、それ以上のことは明確に否定も肯定もされず、曖昧なまま終わった。
つまり、カヲルの成長は、誰か(特に親)に与えられるものではなく、自らの力で獲得するしかないということだ。カヲルは父親という庇護者を得ることなく、愛実との学びを通じて得た「言葉」と、自らの意志で未来を切り開くという決意だけを胸に、独りで生きていくことを選ぶ。
この「父性の不在」はカヲルが真に自立するための最後の試練であり、安易な救済を拒否した作り手の誠実なメッセージと言えるだろう。

個人授業ががもたらしたもの

本作はいわゆる普通の恋愛ドラマではない。
カヲルと愛実の関係は、互いの欠落を埋め合い、共に成長する「教える者」と「教わる者」の物語である。
その原点は、雑居ビルの屋上で愛実がカヲルに文字を教える秘密の「個人授業」にある。
当初は沢口夏希の問題解決のためという義務感から始まった授業が、次第に二人にとってかけがえのない時間となっていくという展開は、非常に巧妙なものだった。

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