【横断考察】家族という呪縛

華麗なる一族(ドラマ、2021)
華麗なる一族(ドラマ、2021)
[スポンサーリンク]
他の横断考察はこちら

私たちはすでに、よそ者としての主人公が「閉じられた共同体」の謎を解くドラマや映画について考察した。
共同体には会社や学校、地域社会などさまざまなパターンがあるが、中でもやや特殊なのが「家族」である。
家族は、他の共同体のように自分の意思では「抜ける」ことができない。私たちは「誰かの子ども」「誰かの兄弟姉妹」でなくなることを選べないのだ。
単に家を出たり、親との交流を断ったりすることはできても、多くの映画やドラマが描いてきた通り、家族という関係性を人生から消すことは容易ではない。血縁、家名、親への情、責任、あるいは幼い頃に刻まれた記憶など、見えない糸が姿形を変えて人生に影響し続ける。

そんな家族の呪縛から、人は自由になれるだろうか。なれるとしたら、その先には何があるのだろうか。

本稿では、『華麗なる一族』『そして父になる』『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』『凪のお暇』などを手がかりに、「家族の呪縛」について考えてみたい。各作品は、その問いに一つの答えを与えるのではなく、それぞれ異なる生き方を私たちに示している。

【とりあげる作品】
『華麗なる一族』(映画:1974、テレビドラマ:1974・2007・2021)/『そして父になる』(2013)/『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(テレビドラマ:2006・2007、映画:2007)/『凪のお暇』(2019)/『マイ・ディア・ミスター~私のおじさん~』(2018)
[スポンサーリンク]
[スポンサーリンク]

「家」から逃れること――『華麗なる一族』

「家族」が意味するものは一様ではない。
親子の情を指す場合もあれば、血縁を指すこともある。あるいは、幼い頃に刷り込まれた価値観を意味することもあるだろう。
それらすべてを包み込む概念が、「家という制度」である。

華麗なる一族

華麗なる一族(2021ドラマ版)

山崎豊子原作の華麗なる一族はたびたび映像化され、「家」との関わりを描いてきた(映画化は1974年、テレビドラマ化は1974年・2007年・2021年)。
この物語は、関西有数の都市銀行・阪神銀行の頭取である万俵大介(映画では佐分利信、ドラマでは山村聡北大路欣也中井貴一)という男の権力を中心にしているように見えるが、じつは、万俵家という「家」そのものが、一族の一人ひとりに役割を与え、その役割から外れることを許さないことを描いている。

華麗なる一族

華麗なる一族(1974年映画版)

長男として生まれた鉄平(映画:仲代達矢、ドラマ:加山雄三木村拓哉向井理)には万俵家の長男ならではの責任、家名を継ぐ者としての家を守る義務がある。個人の幸福よりも家の存続が優先される世界では、自分の人生を自分で選ぶことさえ容易ではない。

鉄平は阪神特殊製鋼を経営し、自らの信念で会社を発展させようとする。しかし、その挑戦は「万俵家の長男」であるという立場から切り離してはあり得ないものだ。父・大介は万俵家と阪神銀行の利益を最優先し、息子の会社を切り捨てることさえためらわない。鉄平は、最後まで父の価値観や万俵家という枠組みから完全に自由になることはできないのである。

親子の情より「万俵家を存続させること」が優先され、鉄平の夢や人生が後景へ追いやられてしまったのは、大介がことさらに非情だということではなく、ほかならぬ「家」という制度そのものが呪縛を発動したことを意味する。

だからここで描かれているのは、父と子という家族構成員同士の対立などではなく、人はどこまで「家」という制度に抗いながら自分の人生を生きられるのかという問いなのである。

[スポンサーリンク]
[スポンサーリンク]

血縁から逃れること――『そして父になる』

『華麗なる一族』の万俵大介は、鉄平の父親が自分の父親(万俵敬介)ではないかと根深く疑っていた。いわば「家」制度を実質的に支える「血縁」そのものによる呪縛に、大介自身が囚われていたと言える。
血縁はどのように人を縛るかという問いを真正面から投げかけた作品としてそして父になる(2013)を取り上げたい。

そして父になる

そして父になる(2013)

主人公・野々宮良多(福山雅治)には、6歳の息子・慶多がいる。しかしあるとき、慶多が病院で取り違えられた子どもであり、真に自分と血のつながる琉晴という少年が別に存在することが判明する。

この作品が突きつけるのは「親とは何か」という古典的な問いではない。
血縁という事実は、6年間にわたって築き上げてきた親子の時間を簡単に覆すほど強いものなのか、あるいは人は血縁を超えて家族になることができるのか、という問いである。

そして父になる

そして父になる(2013)

映画の序盤では、良多は「血は争えない」と考え、実の息子である琉晴との時間を増やそうとする。しかしある日、慶多がカメラで撮りためていた写真を発見する。そこには仕事に向かう自分の後ろ姿や、一緒に過ごした何気ない日常が記録されていた。良多が気づかないところで、慶多はずっと父を見つめ、父との時間を大切に残していたことを知り、良多は、自分が育ててきたのが「血のつながらない子ども」などではなく、自分を父として慕い続けた一人の息子だったことにあらためて気づく。

幕切れ近く、良多と慶多は二股に分かれた別々の歩道を歩きながら会話をするが、これは、その道が最後に合流することで、2人が親子として歩み出す未来を象徴するシーンだった。

本作が描いたのは、血縁から自由になることの難しさだ。
血縁という事実は変えられない。しかし、親子という関係は血だけで決まるものでもないということ。

『華麗なる一族』が「家」制度の呪縛を描いているとすれば、『そして父になる』は、その根底にある血縁という価値観を揺さぶる。血は親子を結びつける。しかし、映画は、親子という関係を育てるのはともに過ごした時間だということを示している。

[スポンサーリンク]

親子の情から逃れること――『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』

さて、じつは、『華麗なる一族』『そして父になる』も、そこに描かれている家族はいささか極端である。
私たちを家族へと引き戻すものは、実際には家制度や血縁というよりも、端的に親子の情であろう。

東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜(2007年映画版)

東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜(2007年映画版)

たとえば東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜(テレビドラマ:2006・2007、映画:2007)。
九州を飛び出し東京でイラストレーターになったボク(映画:オダギリジョー、ドラマ:大泉洋速水もこみち)は、乳がんを患い、抗がん剤治療を受けながら症状を悪化させているオカン(映画:樹木希林、ドラマ:田中裕子倍賞美津子)を東京に呼び寄せ、自宅でともに暮らしながら介護を始める。
それは単なる「家族だから」という義務ではない。
かつて幼いボクは、酒癖の悪いオトン(映画:小林薫、ドラマ:蟹江敬三泉谷しげる)から逃れるオカンに連れられて、筑豊の実家へ移り住んだ。上京後もオカンは折に触れて東京を訪れ、狭いアパートを掃除し、食事を作り、何も言わず息子を支え続けた。その愛情を、ボクはどこか当たり前のものとして受け止めていたのだった。
東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜(2007年ドラマ版)

東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜(2007年ドラマ版)

幼い頃から何度も自分を支えてくれた一人の人間への思いが、ボクを母のもとへ引き戻したのである。
さらに長年別居状態だったオトンも東京へやって来て、病室で静かに妻を見守る。
物理的には家族から離れることはできても、積み重ねられた時間や記憶までが消えてしまうことはない。
だからこそ、ボクは母を見捨てるという選択をせず、再びともに生きることを選んだのだろう。

『華麗なる一族』が「家」制度の呪縛を描く物語で、『そして父になる』が「血縁」を問い直す物語だとすれば、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』は、家族を家族たらしめるものとして、時間をかけて積み重ねられた「情」を描いた。それは人を縛る力であると同時に、自ら家族のもとへ戻ることを選ばせる力でもある

「家族から離れること」と「家族の影響から自由になること」は、必ずしも同じではないのだ。

[スポンサーリンク]

支配から逃れること――『凪のお暇』

ここで、家族を逃れるべき呪縛として描いた作品を再び取り上げよう。生きるために家族の呪縛から逃れる現実を描いた凪のお暇(2019)である。

黒木華(凪のお暇)

凪のお暇(2019)

主人公・大島凪(黒木華)は、他人の顔色ばかりをうかがい、本音を押し殺して生きてきた。職場で過呼吸を起こしたことをきっかけに会社を辞め、SNSを解約し、家財道具も処分して郊外のアパートへ引っ越すことで、いわゆる「人生リセット」を図ろうとしているというのがこの主人公の設定である。

凪のお暇(2019)

しかし、凪を真に縛っていた存在は、会社でもSNSでも元恋人でもなく、母親の夕(片平なぎさ)だった。夕は「娘のため」と言いながら、世間体や自分の価値観を凪へ押しつける。凪は夕からの電話一本で心を乱され、「親を悲しませてはいけない」「期待に応えなければならない」という思い込みから抜け出すことができない。
いわゆる「毒親」の呪縛である。

2010年代には「毒親」という言葉とともに、『お母さん、娘をやめていいですか?』(2017)、『ポイズンドーター・ホーリーマザー』(2019)など、過干渉や歪んだ親子関係を描いた作品が相次いだ。
支配的な親は子どもの人生を自分の人生の延長とみなし、子どもを独立した人格ではなく、自らの価値観や願望を実現する存在として扱う。そのもとで育った子どもは、親の期待に背いて自立することを、あたかも親への裏切りであるかのように感じるようになる。

凪のお暇(2019)

『凪のお暇』の終盤、実家のリフォーム代を無心されて断りきれない凪は、見栄を張りたい母のために元カレの慎二(高橋一生)と同席し、「婚約者」だと嘘をつく偽の親族顔合わせに臨む。
母はそこでさらに凪を追いつめるが、耐えかねた慎二が自らの家庭の矛盾を暴露し、取り繕われた場の空気を壊したとき、凪はようやく「周囲の空気を読むこと」が強制されたものであることに気づく。
母の嘘やプレッシャー、自分の罪悪感のすべてを背負うのをやめた凪は、「私はお母さんを喜ばせるために生きてるんじゃない」「私は私でなんとか生きるから、お母さんもそうして」と母に本音をぶつけることができた。
凪は母親を「一人の不完全な人間」として見ることで、共依存から脱却しえたのである。

家族を捨てることではなく、家族に支配される生き方から逃れること。自分の人生の主人公を親から取り戻すこと。
その一歩を踏み出したとき、初めて人は家族と対等な関係を築けるようになる。

家族との距離の取り方は、自ら選ぶことができるのだ。

[スポンサーリンク]

エピローグ~もうひとつの選択肢

最後に、韓国ドラママイ・ディア・ミスター~私のおじさん~(2018)にふれておきたい。
このドラマは、家族そのものを描いた作品ではない。しかし家族だけが人を支える存在ではないことを教えてくれる作品と言える。
血縁や制度ではなく、互いを理解し、尊厳を認め合う関係は、人がもう一度生き直す力になる。家族から距離を置いた先にも、人を支えるつながりは存在するのである。

IU(マイ・ディア・ミスター〜私のおじさん〜)

マイ・ディア・ミスター~私のおじさん~(2018)

主人公のイ・ジアン(IU)は、幼い頃から暴力と貧困の中で育ち、祖母を支えながら借金取りに追われる過酷な日々を送っている。家族という存在は、彼女にとって心の拠り所ではなく、生きる苦しみそのものだった。
一方、建築会社で働くパク・ドンフン(イ・ソンギュン)もまた、妻の裏切りや会社での権力争いに疲弊し、自分の人生に行きづまりを感じている。
本作は、年齢も境遇もまったく異なる二人が「5000万ウォンの商品券」をめぐる事件をきっかけに出会い、少しずつ互いを理解していく物語である。

これは年の差恋愛ドラマなどではない。そこにあるのは互いの傷を理解し、相手の尊厳を守ろうとする静かな連帯だ。ジアンはドンフンと出会うことで、初めて「利用される存在」ではなくなり、ドンフンもまたジアンを支える中で、自分自身の人生を立て直す力を取り戻していく。
血縁でもなく、婚姻でもなく、法律上の家族でもないが、二人は、互いにとって家族にも似た存在になっていく。

恋愛ドラマにおいては“愛されること”が救いとして描かれるが、本作が提示しているのは「ただ理解されること」の価値だ。救おうと押しつけるのではなく、ただ相手の痛みを理解し、その尊厳を守ろうとする姿勢が、二人を生き直させていく。

人は家族を選んで生まれることはできないが、人生の中で、自分を理解し支えてくれる人とのつながりを選び直すことができる。家族の呪縛から自由になるのに必要なことは、家族を捨てることではない。

家族との距離を自ら決め、血縁の内側にも外側にも、自分が安心して生きられる関係を築いていくことなのだ。


他の横断考察はこちら

家族という呪縛から自由になろうとする人たちの映画・ドラマ

華麗なる一族
「華麗なる一族」(1974年映画版・1974年・2007年・2021年版ドラマ)の感想と評価・独自の考察を交え、キャストや配信情報を徹底レビュー。
凪のお暇
高橋一生が、これまでの演技のパロディのような、かなり狂った男を自然に演じている。コメディとあるけど、どうみてもサスペンスのような演出でもある。
東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜
「東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜」の感想と評価・独自の考察を交え、キャストや配信情報を徹底レビュー。
[スポンサーリンク]