映画やドラマは、女同士の愛をどのように描いてきたか。
『愛はステロイド』(2024)で、ジムのマネージャーとして働くルーは、町にやってきたボディビルダーのジャッキーと出会い、激しい恋に落ちる。二人は互いの身体を欲望し、愛し合い、やがて殺人と逃亡へ踏み込んでいく。だが、この映画で、彼女たちが愛し合っていること自体は、問題になっていない。二人を追いつめていくのは同性愛への偏見ではなく、家族であり、暴力であり、犯罪である。
これはかつての映画では考えにくいことだった。
往年の名画『噂の二人』(1961)では、二人の女性が同性愛関係にあるという「噂」を立てられただけで人生が崩壊している。女が女を愛することは、口にするのも憚られる秘密であり、それだけで社会から排除される理由になり得た時代だった。
それから35年後の『バウンド』(1996)では、コーキーとヴァイオレットが互いを欲望し、男たちを出し抜き、自分たちの人生を手に入れようとした。
さらに『モンスター』(2003)では、社会の底辺に追いやられた二人の女性の愛が、貧困や男性からの暴力、犯罪と結びついていった。
『キャロル』(2015)では、二人の女性が惹かれ合うことそのものが、恋愛映画の中心に置かれた。
そして『愛はステロイド』では、女たちは愛し合うだけではない。欲望し、怒り、戦い、殺し、逃げる。
そこにあるのは、単に「同性愛への理解が進んだ」という歴史ではない。
変わったのは、彼女たちが映画の中で占める場所なのかもしれない。
他人から同性愛者と名指される存在から、自ら誰かを愛する存在へ。そして、自らの欲望と意志によって物語そのものを動かす存在へ。
『噂の二人』から『愛はステロイド』まで、およそ60年。
5つの映画をたどりながら、スクリーンの中で「女たちの愛」がどのように描かれ、女たち自身がどのように変わってきたのかを考えてみたい。
噂の二人(1961)/バウンド(1996)/モンスター(2003)/キャロル(2015)/愛はステロイド(2024)
噂の二人:愛を語ることさえ

噂の二人(1961)
監督はウィリアム・ワイラー。彼にとってこれは二度目の映画化だった。

この三人(1936)
つまりこの映画は、25年前に描くことさえ許されなかったものをワイラーがスクリーンに取り戻した映画でもある。

カレン・バルキン
(この段階では、二人が実際に愛し合っているかどうかなど、誰も確かめていない。「あの二人は同性愛者だ」という言葉だけで十分なのだ)
噂は瞬く間に事実として扱われ、学校は閉鎖に追い込まれ、二人は社会から孤立する。カレンとジョーの関係にも疑念が入り込み、それまで築いてきた生活そのものが崩れていく。
1961年のアメリカにおいて、女が女を愛することは、本人の欲望以前に、まずもって社会から貼られる危険なレッテルだった。
しかも『噂の二人』はそこで終わらない。やがてマーサは、自分が本当にカレンを愛していたことに気づく。「嘘」だったはずのものが、マーサ自身の内面で「真実」になるのである。
しかし、彼女がその感情を新しく発見した喜びとして語ることはできない。むしろ、自分の中にそんな欲望があったことに恐怖し、恥じ、自分自身を否定する。
ここに、この時代のクィア表象の残酷さがある。
社会が二人を排除しただけではない。社会の価値観はマーサ自身の内側にまで入り込み、彼女に自分の感情を否定させる。彼女にとって「私はあなたを愛している」という告白は、愛の言葉ではなく、自分が恐れていた存在だったことを認める告白になってしまう。そしてマーサは自ら命を絶つ。
現在から見れば、同性愛者であることを自覚したマーサが死を選ぶ展開は唐突と思うかもしれないが、時代は依然として「同性愛者がアイデンティティを肯定され、幸せに生きるハッピーエンド」を許さなかったのである。マーサがカレンへの愛を語ることができなかったように、ハリウッド映画そのものもまた、長いあいだ「女が女を愛する」と語ることを禁じられていたのである。
『噂の二人』を、単純に「同性愛は不幸になる」という物語として片づけることはできない。
マーサを死に追いやったのは、カレンへの愛そのものではない。その愛を持ったまま生きていく場所が、彼女のいる社会には存在しなかったのである。
だから逆説的に言えば、この映画では、最後まで「女同士の恋愛」などほとんど始まっていないのだ。二人が互いを見つめ、惹かれ合い、関係を選び取る物語ではない。
女性同士の愛はまず他人によって噂され、社会によって裁かれ、ようやく本人が自覚したときには、すでに生きることのできない感情になっている。
それから35年後――『バウンド』に登場する二人の女は、まったく違う場所から始める。彼女たちは、自分たちから互いを見つめ、互いを欲望し、自分たちから関係を始める。
バウンド:女が女を欲望する

バウンド(1996)
刑務所を出たばかりのコーキー(ジーナ・ガーション)は、アパートの一室で改装工事を始め、隣室に住むヴァイオレット(ジェニファー・ティリー)と出会う。ヴァイオレットはマフィアの男シーザー(ジョー・パントリアーノ)の愛人だが、二人はたちまち互いに惹かれ合う。そしてシーザーが預かっている200万ドルを奪い、二人で逃げる計画を立てる。
『噂の二人』では、女同士の愛を最初に発見するのは他人だった。「あの二人は同性愛者ではないか」という他者の視線によって、マーサとカレンは関係を規定された。
『バウンド』では逆である。ヴァイオレットは自分からコーキーを見つめ、コーキーもその視線に応える。誰かに関係を名指される前に、女が女を見つけ、自分の欲望によって相手を選ぶ。
その転換を象徴するのが、コーキーという人物の造形だろう。
すっぴんに近い顔、短く無造作な黒髪、タンクトップ、革のジャケット、作業着。配管工として働き、工具を扱うコーキーの姿には、明らかにブッチ/ダイクと呼ばれてきたクィア女性の身体表現が取り込まれている。それは単に「男っぽい女」という造形ではない。
今では信じがたいことかもしれないが、それまでの映画で女同士の性愛が描かれるとき、それはしばしば「男から見て魅力的な女二人のエロティックな絡み合い」でしかなかった。いくら女性が女性を欲望しているように見えても、その光景を見るのを想定されているのは男だったのである。
『バウンド』は、その視線を反転させた。
ヴァイオレットがコーキーを見る。コーキーがヴァイオレットを見る。そして映画は、その女から女へ向かう視線の中に観客を置く。
ヴァイオレットの造形も巧妙だ。身体の線を強調したドレスをまとい、化粧をし、マフィアの男の愛人として振る舞う彼女は、一見すると典型的な「男に見られる女」だが、それもまた彼女が生き延びるために身につけた役割だった。
シーザーはヴァイオレットを自分の所有物だと思っている。ところが実際には、ヴァイオレットは彼の欲望を利用し、その目の前で別の女を愛し、最後には彼の金まで奪おうとする。
つまり『バウンド』は、性的な視線だけではなく、犯罪映画そのものの構造まで反転させたのである。
従来のフィルム・ノワールなら、男がファム・ファタールに魅了され、その女によって破滅へ導かれる。ところが『バウンド』では、ファム・ファタールに見えたヴァイオレットと、ハードボイルドな男の役割を思わせるコーキーが手を組み、男の方を物語から排除してしまう。
女同士の愛は、もはや物語の中で裁かれる秘密ではなくなり、むしろ二人が既存の世界から抜け出すための力になっている。
もちろん、彼女たちが手に入れる自由は犯罪によって可能になるものだ。200万ドルを盗み、マフィアを欺き、人を死なせながら、それまで二人を支配していた世界から脱出するのだ。
そういう意味では、『バウンド』は、単に「女同士の恋愛を肯定した映画」というだけではない。
女が女を見ること。
女が女を欲望すること。
そして女たち自身が、自分たちのために物語を動かすこと。
『噂の二人』では始めることさえできなかった「女たちの愛」が、35年後には犯罪映画を乗っ取るほどの力を持ったのである。
モンスター:愛だけでは逃げられない

モンスター(2003)
本作のヒロイン(シャーリーズ・セロン)は実在の連続殺人犯アイリーン・ウォーノスである。アイリーンは路上で客を取るセックスワーカーだ。人生に絶望した彼女は、バーで若い女性セルビー(クリスティーナ・リッチ)と出会い、惹かれ合って、やがて一緒に暮らし始める。
ここまでは『バウンド』と同じ流れだ。社会の周縁にいる二人の女が出会い、互いを愛し、自分たちを支配している世界から抜け出そうとする。そして、その過程で犯罪に踏み込んでいく。
しかし二つの映画がたどる方向は正反対だ。
『バウンド』のコーキーとヴァイオレットには、200万ドルを奪えば逃げられる「外」があった。男たちを出し抜き、金を手に入れれば、二人だけの人生を始めることができる。
アイリーンとセルビーには、その「外」がないのだ。
アイリーンはセルビーとの生活を続けるために、セックスワーカーをやめて普通の仕事に就こうとするが、まともな職歴も学歴もなく、男から金を得る以外に生きる方法をほとんど持たない彼女にとって、それは容易ではない。アイリーンは結局、再び路上へ戻り、そして客から暴行を受けて、その男を射殺する。それは男への反撃だったが、一度越えた境界はすぐに曖昧になる。彼女は男たちを殺して金や車を奪うようになり、その金でセルビーとの生活を維持しようとする。
そうして二人の「愛」は奇妙なものに変わっていく。
セルビーとの出会いはアイリーンに初めて生きる希望を与え、誰かと暮らしたい、普通の生活をしたいという願いを抱かせた。だからこそ彼女は人生を変えようとしたのだったが、その生活を守ろうとすればするほど、アイリーンは犯罪から抜け出せなくなる。
『バウンド』では犯罪が女たちを自由にしたが、『モンスター』では犯罪が女たちを追いつめる。この違いを、単に二人の選択の違いだけで説明することはできない。
コーキーとヴァイオレットを閉じ込めていたのは、マフィアという犯罪世界だったが、アイリーンを閉じ込めているものは、貧困、仕事、性、男からの暴力という、より大きなものである。どこか一つから逃げれば自由になれるわけではない。社会そのものの中に、彼女が普通に生きられる場所がほとんど残されていないのである。
だから『モンスター』で描かれる女同士の愛は、『噂の二人』とは違う意味で悲劇になる。
二人が女同士だから破滅するのではない。
女同士で愛し合うことは、すでに物語の中で可能になっている。アイリーンはセルビーを欲望し、セルビーもその愛を受け入れるが、それでも二人は自由になれないのだ。
ここでクィア表象は、『バウンド』とは別の問題に直面する。
問題はもはや、「女が女を愛してよいか」だけではない。愛する自由を手に入れたとしても、その二人が生きていくための金がなければどうするのか。仕事がなければどうするのか。社会の中に居場所がなければどうするのか。
『モンスター』は、女同士の愛を社会から切り離された美しいものとして描いていない。愛もまた、貧困や暴力や金の中で生きなければならないということだ。
『噂の二人』では、女を愛していることを認めれば生きられなかった。『バウンド』では、女を愛することで男たちの世界から逃げ出すことができた。
『モンスター』では、女を愛することはできる。しかし愛だけでは、逃げ場はないのだ。
キャロル:女同士の愛が物語に

キャロル(2015)
舞台は1950年代のニューヨーク。デパートで働く若い女性テレーズ(ルーニー・マーラ)は、クリスマスプレゼントを買いに来た裕福な人妻キャロル(ケイト・ブランシェット)と出会う。テレーズはキャロルに惹かれ、キャロルもまたテレーズに関心を寄せる。二人は食事をし、ドライブをし、やがて旅に出る。
本作が恋愛映画として成立しているのは当たり前のことのようだが、『噂の二人』『バウンド』『モンスター』と並べてみると、驚くほど大きな変化ではないか。
社会を揺るがす「醜聞」だった女同士の愛(『噂の二人』)が、犯罪と暴力の渦を経て(『バウンド』『モンスター』)、女が女に惹かれることそのものが物語になっているのである。
テレーズがキャロルを見る。キャロルがテレーズを見る。
『バウンド』でも交わされていた「女が女を見る視線」が、ここでは犯罪映画の装置から切り離され、恋愛映画そのものを動かしていく。
テレーズにとって、キャロルは「同性愛者」としてではなく、ただ一人の美しい女として現れる。その姿に目を奪われ、彼女は名づけえぬ感情に導かれて彼女へと近づいていく。
もちろん、二人の愛が社会から完全に自由になったわけではない。キャロルは夫ハージ(カイル・チャンドラー)との離婚協議の最中にあり、娘の親権をめぐって争っているので、テレーズとの関係を知られると、母親として不適切であることの証拠として利用されてしまう(キャロルは娘に会う権利を守るため、精神科医のもとで治療を受けることまで要求される)。依然として、女が女を愛することは矯正されるべきものなのだ(『噂の二人』に逆戻りしているように見えるのは、その舞台が1952年のニューヨークだからで、じつは『噂の二人』公開より前なのだ)。
『噂の二人』のマーサはカレンへの愛に気づいたとき、その感情を自身で否定したが、キャロルは否定しないというのが、二つの映画の決定的な違いである。
娘も、テレーズも愛している。そのどちらかを選ばなければ「まともな女」として認めてもらえないなら、その条件そのものを拒む。
ここで初めて、社会の側が女たちの愛をどう評価するかと、当人が自分の愛をどう評価するかが切り離される。
社会は「間違っている」と言うが、本人はそれが間違ってなどいないことを知っているというのは、『噂の二人』からの大きな変化である。
『キャロル』は、二人を死なせることで物語を終わらせない。終盤、テレーズはレストランにいるキャロルを見つけ、大勢の人々の中を歩いて近づいていく。そしてキャロルがテレーズに気づき、二人の視線が重なるところで、映画は終わるのである。
女同士の愛が許されるかどうかを、社会に判定してもらう必要はもうない。
『噂の二人』のマーサは女を愛していると気づいて生きていくことができなくなり、『バウンド』の女たちは犯罪によって男たちの世界から逃げ出し、『モンスター』のアイリーンには社会から逃げる場所がなかった。
『キャロル』では、女たちはもう社会の外へ逃げ続ける必要はない。社会の中にとどまったまま、それでも自分が愛する相手を選ぶのである。
愛はステロイド:女たちは再び犯罪へ

愛はステロイド(2024)
1989年、ニューメキシコ。ジムで働くルー(クリステン・スチュワート)は、ラスベガスのボディビル大会優勝を目指して旅をするジャッキー(ケイティ・オブライアン)と出会う。二人は激しく惹かれ合い、すぐに一緒に暮らし始めるが、ルーの姉ベスが夫JJ(デイヴ・フランコ)から激しい暴力を受けたことで、物語は大きく動き始める。怒りに駆られたジャッキーがJJを撲殺し、ルーは死体の処理に手を貸さざるを得なくなる。そして二人は、ルーの父親(エド・ハリス)が支配する犯罪の世界へ巻き込まれていくのである。
女同士の恋愛、暴力、殺人、犯罪、そして逃亡。
このラインナップは、約30年前の『バウンド』から変わっていないように見える。
そして実際、ルーを演じるクリステン・スチュワートの造形は、『バウンド』のコーキーにあまりにも近い――すっぴんに近い顔、短く無造作な髪、Tシャツやタンクトップ。男に評価されるためではなく、自分自身のセクシュアリティや身体感覚によって構築されたクィアな女性の姿である。
しかし、ルーが愛するジャッキーは、『バウンド』のヴァイオレットとはまるで違う。巨大な筋肉を身につけ、ステロイドによってさらに身体を膨張させていく彼女は、「女らしい身体」という規範から大きくはみ出している。
ジャッキーの過剰な身体は、本作の中で矯正されない。その筋肉は、男のようになるためのものではない。彼女は自分が望む身体を自分で作り、それをルーが欲望するのだ。
『バウンド』でコーキーが示したブッチ/ダイクの身体表現が、『愛はステロイド』ではさらに拡張されている。
女がどんな姿で女を愛するのか、どんな身体を美しいと思うのか、どんな身体になりたいのかという基準を決めるのは、もはや男ではないのである。
『バウンド』と『愛はステロイド』の最大の違いは、二人が犯罪へ踏み込む理由にある。
ウォシャウスキー姉妹の映画では、コーキーとヴァイオレットは男が支配する世界から抜け出すために、男たちの金を奪い、その犯罪世界を乗っ取る。つまり女同士の愛と犯罪映画の構造そのものが密接に結びついていた。
『愛はステロイド』のルーとジャッキーは、彼女たちが女同士だから犯罪者になるわけではない。同性愛を隠すために人を殺すわけでもなければ、二人でいることを指弾されたから逃げるのでもない。
ジャッキーが人を殺してしまったから、死体を隠さなければならない。ルーの父親が犯罪者だから、その世界との対決を余儀なくされる。
つまり、彼女たちに降りかかる災難と、彼女たちがクィアであることとは、ほとんど無関係なのだ。
これは決して些細な違いではない。
『噂の二人』では、女を愛すること自体が人生を破壊し、『モンスター』では、女同士の愛を描くことが可能になっても、貧困や暴力といった社会の現実から逃れることはできず、『キャロル』では、ついに女同士の愛そのものだけで恋愛映画が成立した。
『愛はステロイド』はクィア映画でありながら、クィアであることを悲劇として説明する映画ではない。ルーとジャッキーは愛し、セックスをし、嫉妬し、喧嘩をし、間違いを犯し、とんでもないことをしでかす。彼女たちは「正しいクィア」である必要すらないのだ。
ここまで来れば、女同士の愛はもはや映画が説明しなければならない「テーマ」ではない。登場人物が誰を愛するかという、ごく普通の物語の一部になっている。
だから『愛はステロイド』は『バウンド』によく似ていながら、同じ映画ではない。
1996年には女たちが犯罪映画を乗っ取ること自体がラディカルだったが、2024年、女たちは最初から犯罪映画の主人公になれるのである。
女たちの愛の系譜
『噂の二人』から『愛はステロイド』まで、およそ60年。
5つの映画を並べてみると、女同士の愛をめぐって映画が描いてきたものが変遷していることがわかる。
ワイラーの映画では、女が女を愛することは「事件」だった。本人が自覚しないうちに他人によって名指され、社会から排除され、自分の感情に気づいたときには、それを抱えたまま生きていくことができなくなっていた。
ウォシャウスキー姉妹の映画では、女たちは自ら相手を見つけ、欲望し、男たちの世界を出し抜いた。
シャーリーズ・セロンの映画では、愛する自由を手にしても、貧困や暴力から自由になれるわけではないことが描かれた。
ルーニー・マーラとケイト・ブランシェットは、社会がその愛を認めなくても、本人が自分の愛まで否定する必要はなくなった。
そして『愛はステロイド』にたどり着く。
これは紛れもなくクィア映画である。
ルーとジャッキーのセクシュアリティも、二人が互いの身体を欲望することも、映画の重要な部分を占めている。コーキーからルーへと続くブッチ的な女性像や、さらにそこから大きく逸脱していくジャッキーの身体を見ても、この映画からクィアという要素を取り除くことはできない。しかし、クィアであることは彼女たちの「問題」ではなくなっている。
彼女たちは、自分たちの愛が正しいことを社会に証明する必要がない。差別に苦しむことで観客の理解を求める必要もなければ、模範的な人物として描かれる必要もない。
愛し、欲望し、嫉妬し、喧嘩をする。嘘をつき、間違いを犯し、殺人まで犯す。つまり彼女たちは、「ろくでもないこと」をする自由まで手に入れたということだ。
それは、「クィア映画」という枠組みから女たちが解放されたということではなく、むしろクィア映画が「クィアであることの苦悩」を描かなければならないという軛から、少しずつ自由になってきたということかもしれない。
『噂の二人』では女同士の愛が事件だった。『愛はステロイド』でも女たちは事件を起こすが、2024年、本当に事件なのは、彼女たちが愛し合っていることではなく、人を殺したことなのだ。

