今、逃げることは敗北を意味するだろうか。
困難から目を背けること。責任を放棄すること。最後まで戦わなかった者への烙印。「逃げる」という言葉はそうした負のイメージを伴ってきた。
しかし、いくつかの映画やドラマはこの価値観を覆そうとしている。
たとえば、虐待から子どもを連れ出して逃げ続ける『Mother』。社会のルールから降り、新しい生き方を設計する『逃げるは恥だが役に立つ』。人間関係から逃げ続けて自分自身と向き合う『そして僕は途方に暮れる』。そして、人生を縛る役割や常識を捨てて旅に出る『テルマ&ルイーズ』と『照子と瑠衣』。
これらの作品は、「逃げること」の是非を問うことをしない。
人は何から逃げるのか、なぜ逃げるのか、そして逃げた先には何が待っているのか。
逃げることは生き延びるためのきわめて現実的な選択肢である。本稿では、それぞれ異なる「逃亡」を描いた作品を横断しながら、「逃げる」という現実的な選択がどのように描かれてきたのかを読み解いていきたい。
逃げるは恥だが役に立つ(2016)/Mother(2010)/そして僕は途方に暮れる(2023)/テルマ&ルイーズ(1991)/照子と瑠衣(2025)
『逃げるは恥だが役に立つ』──逃げた先でルールを書き換える

逃げるは恥だが役に立つ(2016)
タイトルの由来となったハンガリーの諺は、一見すると消極的な処世術のように聞こえるが、このドラマが描いているのは逃避ではなく、既存のルールを書き換えるための戦略だった。

逃げるは恥だが役に立つ(2016)
それは社会から降りることを意味しない。彼女は「結婚」「主婦」「恋愛」という社会の仕組みを一つずつ分解し、自分たちなりのルールへと組み替えていく。
つまり本作における「逃げる」とは、敗北でも撤退でもない。既存のルールから離れ、自分たちが生きられる新しいルールを設計することなのである。

逃げるは恥だが役に立つ(2016)
二人は問題が起こるたびに話し合い、契約を見直し、関係を更新していく。その過程で「契約結婚」の仕組みはやがて不要になり、二人は制度ではなく相互理解によって結ばれたパートナーへと変わっていく。
つまり『逃げるは恥だが役に立つ』が描いたのは、逃げることの正当化ではない。逃げるとは、自分に合わないゲームから降り、新しいルールを書き換えることなのである。
『Mother』──逃亡は失敗したのか

Mother(2010)
このドラマは、渡り鳥の研究者だったが望まない小学校教諭となった鈴原奈緒(松雪泰子)が室蘭で出会った、ネグレクトを受けている道木怜南(芦田愛菜)との逃亡劇である。

Mother(2010)
名前を変え、住む場所を変え、人目を避けながらの旅は、終着点の見えないものだった(奈緒の実母である田中裕子は、みなとみらいの観覧車が「倒れてきそうだ」と不穏なことを言う)。
終盤、戸籍を買おうとした奈緒は、伊豆熱川で警察に逮捕され、二人はついに引き離されてしまう。

Mother(2010)
最終回で奈緒と怜南が交わした「大人になったらまた会おう」という約束は、国家や司法が二人を引き離そうとも、その絆だけは守り抜かれたことを示している。逃げた時間そのものが、互いの人生を決定的に変えたのである。
だから『Mother』が描いたのは、逃げ切ることではなく、逃げることによってしか守れないものがあるということである。
その意味で本作は、「逃げる」という現実的な選択の、もっとも切ない面を描いているのである。
『そして僕は途方に暮れる』──自分自身と向き合うこと

そして僕は途方に暮れる(2023)
同棲している里美(前田敦子)に浮気を責められて家を飛び出した彼は、親友の家、バイトの先輩の家、仲のよくない姉の家と次々と居場所を変え、そのたびに問題から目を背け、さらに次の場所へ逃げ続ける。

そして僕は途方に暮れる(2023)
逃げるたびに人間関係は壊れ、居場所は失われる。しかし、どこまで逃げても、自分という存在だけは置き去りにできない。タイトルの「途方に暮れる」とは、行き場を失ったことを意味するのではなく、逃げ続けた果てに、自分からは逃げられないという現実に立ち尽くすことだ。

そして僕は途方に暮れる(2023)
映画のラストで裕一は再び居場所を失い、「途方に暮れる」。しかし、ラストの彼はもう反射的に逃げる人間ではない。不敵に振り返るその表情には、ここまで逃げ続けてきた自分自身を見つめ返す意思がある。自分は逃げてきたという事実を受け止めはじめている。
だから『そして僕は途方に暮れる』は、「逃げる」ことそのものを否定する映画ではない。逃げ続けた果てに、自分からは逃げられないという現実を知ること、そしてその現実を初めて引き受けようとする瞬間を描いているのである。
『逃げるは恥だが役に立つ』では、逃げた先に新しいルールが生まれた。『Mother』では、逃げた時間が人を救った。『そして僕は途方に暮れる』で主人公が手に入れたのは、新しい居場所でも救いでもなく、逃げる自分自身を、ようやく客観的に見つめる視点である。
その意味で、本作は「逃げる」という現実的な選択の限界を描いたものではない。逃げることによって初めて、自分自身と向き合う地点へたどり着く物語なのである。
『テルマ&ルイーズ』『照子と瑠衣』──逃げて人生を取り戻す

テルマ&ルイーズ(1991)
年齢は決定的に違うものの、どちらも主人公は二人の女性だ。『テルマ&ルイーズ』のテルマ(ジーナ・デイヴィス)は夫に支配され、ルイーズ(スーザン・サランドン)は男性中心社会の暴力に傷ついてきた。一方、『照子と瑠衣』の照子(風吹ジュン)と瑠衣(夏木マリ)もまた、老い、介護、家族への責任、そして「高齢女性はこう生きるべきだ」という社会の期待に縛られている。

照子と瑠衣(2025)
家を出て、車を走らせ、見知らぬ土地へ向かう旅は、目的地へ向かうためではなく、これまで生きてきた人生から距離を置くための時間でもある。
映画とドラマの結末は対照的だ。

テルマ&ルイーズ(1991)
『照子と瑠衣』は進路に悩む女子高生(藤﨑ゆみあ)にエールを送り、最終的に、過去のしがらみの象徴である車を手放し、身軽になって次の場所へと旅立っていく。それは、誰かの期待や役割ではなく、自分自身の意思で生きることを選んだ瞬間だった。

照子と瑠衣(2025)
『テルマ&ルイーズ』から30年以上が過ぎても、「女性が社会から割り当てられた役割を捨てて旅に出る」という構造は変わっていないと言える。変わったとすれば、その旅の先に物語が見せる未来で、『テルマ&ルイーズ』では自由は死と引き換えだったが、『照子と瑠衣』では、逃げた先にも人生は続いていくということだ。
つまり、今、「逃げる」という行為は、終わりではなく、人生を選び直すための現実的な選択肢になったのである。
逃げることは、生きることを選び直すこと
かつて物語の主人公とは、困難に立ち向かい、それを乗り越える存在だった。逃げる者は敗北者であり、最後まで戦うことが美徳とされてきた。今、その価値観は変わりつつある。
『逃げるは恥だが役に立つ』は、自分に合わないルールから降り、新しいルールをつくることを描いた。
『Mother』は、社会や法律に背いてでも、逃げることによってしか守れない命があることを示した。
『そして僕は途方に暮れる』は、逃げても自分自身からは逃れられない現実を突きつけた。
『テルマ&ルイーズ』『照子と瑠衣』は、逃げることによって初めて、自分の人生を取り戻そうとした。
これらに共通するのは、「逃げること」の是非ではなく、今いる場所で生き続けることが本当に正しいのかという問いである。
無責任に「逃げろ」とも、「逃げるな」とも言わない。
逃げることで救われる命もあれば、逃げることでしか始まらない人生もある。
逃げるだけでは結局何も変わらないかもしれない。
言ってみれば、逃げるという行為そのものではなく、その先で何を選び直すかこそが重要なのだ。
「逃げる」という選択は、敗北でも勝利でもない。自分の人生をもう一度引き受けるための最初の一歩なのである。

