【横断考察】「逃げる」という現実的な選択

スーザン・サランドン、ジーナ・デイヴィス(テルマ&ルイーズ)
テルマ&ルイーズ(1991)
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今、逃げることは敗北を意味するだろうか。

困難から目を背けること。責任を放棄すること。最後まで戦わなかった者への烙印。「逃げる」という言葉はそうした負のイメージを伴ってきた。
しかし、いくつかの映画やドラマはこの価値観を覆そうとしている。
たとえば、虐待から子どもを連れ出して逃げ続ける『Mother』。社会のルールから降り、新しい生き方を設計する『逃げるは恥だが役に立つ』。人間関係から逃げ続けて自分自身と向き合う『そして僕は途方に暮れる』。そして、人生を縛る役割や常識を捨てて旅に出る『テルマ&ルイーズ』『照子と瑠衣』
これらの作品は、「逃げること」の是非を問うことをしない

人は何から逃げるのか、なぜ逃げるのか、そして逃げた先には何が待っているのか。

逃げることは生き延びるためのきわめて現実的な選択肢である。本稿では、それぞれ異なる「逃亡」を描いた作品を横断しながら、「逃げる」という現実的な選択がどのように描かれてきたのかを読み解いていきたい。

とりあげる作品

逃げるは恥だが役に立つ(2016)/Mother(2010)/そして僕は途方に暮れる(2023)/テルマ&ルイーズ(1991)/照子と瑠衣(2025)

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『逃げるは恥だが役に立つ』──逃げた先でルールを書き換える

逃げるは恥だが役に立つ(2016)

逃げるは恥だが役に立つ(2016)

「逃げる」という言葉を前向きなものとして更新した記念碑的ドラマが、逃げるは恥だが役に立つ(2016)である。

タイトルの由来となったハンガリーの諺は、一見すると消極的な処世術のように聞こえるが、このドラマが描いているのは逃避ではなく、既存のルールを書き換えるための戦略だった。

逃げるは恥だが役に立つ(2016)

逃げるは恥だが役に立つ(2016)

主人公・森山みくり(新垣結衣)は、大学院を卒業しながら派遣社員として働いていたが、契約終了によって居場所を失う。努力すれば報われるという社会ルールに従ってきたにもかかわらず、そのシステムから弾き出された。そこで彼女が選んだのは、「もっと頑張る」ことではなく、家事労働を仕事として契約し、「契約結婚」という誰も経験したことのない関係を築くことで、既存の制度の外側に新しい居場所をつくろうとすることだった。
それは社会から降りることを意味しない。彼女は「結婚」「主婦」「恋愛」という社会の仕組みを一つずつ分解し、自分たちなりのルールへと組み替えていく
つまり本作における「逃げる」とは、敗北でも撤退でもない。既存のルールから離れ、自分たちが生きられる新しいルールを設計することなのである。

逃げるは恥だが役に立つ(2016)

逃げるは恥だが役に立つ(2016)

この点で平匡(星野源)も同じだ。彼は恋愛そのものを拒絶しているのではなく、他者と深く関わり傷つくことを恐れてきたから、「雇用主と従業員」という距離を保った関係を選び、安全な場所から他者との関係を始めようとする。
二人は問題が起こるたびに話し合い、契約を見直し、関係を更新していく。その過程で「契約結婚」の仕組みはやがて不要になり、二人は制度ではなく相互理解によって結ばれたパートナーへと変わっていく。

つまり『逃げるは恥だが役に立つ』が描いたのは、逃げることの正当化ではない。逃げるとは、自分に合わないゲームから降り、新しいルールを書き換えることなのである。

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『Mother』──逃亡は失敗したのか

Mother(2010)

Mother(2010)

『逃げるは恥だが役に立つ』が「逃げた先で新しいルールをつくる物語」だとすれば、Mother(2010)では、そのような余地すら与えられていない。

このドラマは、渡り鳥の研究者だったが望まない小学校教諭となった鈴原奈緒(松雪泰子)が室蘭で出会った、ネグレクトを受けている道木怜南(芦田愛菜)との逃亡劇である。

Mother(2010)

Mother(2010)

二人は何から逃げているのか。そこには、実母(尾野真千子)の「血がつながっているから愛する」という血縁の呪縛ともいうべき規範、そして誘拐という法と社会の論理などからの逃亡が重ねられている。
名前を変え、住む場所を変え、人目を避けながらの旅は、終着点の見えないものだった(奈緒の実母である田中裕子は、みなとみらいの観覧車が「倒れてきそうだ」と不穏なことを言う)。
終盤、戸籍を買おうとした奈緒は、伊豆熱川で警察に逮捕され、二人はついに引き離されてしまう。

Mother(2010)

Mother(2010)

法というルールの前に、二人の逃亡は失敗に終わったように見えるが、本当にそうだろうか。

最終回で奈緒と怜南が交わした「大人になったらまた会おう」という約束は、国家や司法が二人を引き離そうとも、その絆だけは守り抜かれたことを示している。逃げた時間そのものが、互いの人生を決定的に変えたのである。

だから『Mother』が描いたのは、逃げ切ることではなく、逃げることによってしか守れないものがあるということである。
その意味で本作は、「逃げる」という現実的な選択の、もっとも切ない面を描いているのである。

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『そして僕は途方に暮れる』──自分自身と向き合うこと

そして僕は途方に暮れる(2023)

そして僕は途方に暮れる(2023)

『逃げるは恥だが役に立つ』『Mother』では、「逃げる」ことには明確な目的があったが、そして僕は途方に暮れる(2023)の主人公・裕一(藤ヶ谷太輔)にはそのようなものがない。

同棲している里美(前田敦子)に浮気を責められて家を飛び出した彼は、親友の家、バイトの先輩の家、仲のよくない姉の家と次々と居場所を変え、そのたびに問題から目を背け、さらに次の場所へ逃げ続ける。

そして僕は途方に暮れる(2023)

そして僕は途方に暮れる(2023)

彼が逃げているのは、同棲相手でも家族でもなく、他者と本気で向き合い、自分の本音を言葉にしなければならない瞬間そのものである。そこには他者から向けられる期待や失望、責任、そして自分自身の弱さが燻っている。

逃げるたびに人間関係は壊れ、居場所は失われる。しかし、どこまで逃げても、自分という存在だけは置き去りにできない。タイトルの「途方に暮れる」とは、行き場を失ったことを意味するのではなく、逃げ続けた果てに、自分からは逃げられないという現実に立ち尽くすことだ。

そして僕は途方に暮れる(2023)

そして僕は途方に暮れる(2023)

この映画は、逃げることそのものを否定してはいない。後半に登場する裕一の父親(豊川悦司)は、裕一を上回る逃げの常習犯であり、最低のクズを自認しているが、裕一にこう教える。「逃げて逃げて、逃げられなくなったら、映画の登場人物のように『面白くなってきやがった』と呟けばいい」。これは究極の「逃げ」の極意と言える。人生を一歩引いて眺め、自分自身を映画の登場人物として対象化することで、人は初めて逃げ続けてきた自分と向き合うことができるのだ。

映画のラストで裕一は再び居場所を失い、「途方に暮れる」。しかし、ラストの彼はもう反射的に逃げる人間ではない。不敵に振り返るその表情には、ここまで逃げ続けてきた自分自身を見つめ返す意思がある。自分は逃げてきたという事実を受け止めはじめている。

だから『そして僕は途方に暮れる』は、「逃げる」ことそのものを否定する映画ではない。逃げ続けた果てに、自分からは逃げられないという現実を知ること、そしてその現実を初めて引き受けようとする瞬間を描いているのである。

『逃げるは恥だが役に立つ』では、逃げた先に新しいルールが生まれた。『Mother』では、逃げた時間が人を救った。『そして僕は途方に暮れる』で主人公が手に入れたのは、新しい居場所でも救いでもなく、逃げる自分自身を、ようやく客観的に見つめる視点である。

その意味で、本作は「逃げる」という現実的な選択の限界を描いたものではない。逃げることによって初めて、自分自身と向き合う地点へたどり着く物語なのである。

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『テルマ&ルイーズ』『照子と瑠衣』──逃げて人生を取り戻す

テルマ&ルイーズ(1991)

テルマ&ルイーズ(1991)

映画テルマ&ルイーズ(1991)とドラマ照子と瑠衣(2025)は、社会から与えられた役割を捨て、自分の人生を取り戻すための逃亡劇を描いたロードムービーである。
年齢は決定的に違うものの、どちらも主人公は二人の女性だ。『テルマ&ルイーズ』のテルマ(ジーナ・デイヴィス)は夫に支配され、ルイーズ(スーザン・サランドン)は男性中心社会の暴力に傷ついてきた。一方、『照子と瑠衣』の照子(風吹ジュン)と瑠衣(夏木マリ)もまた、老い、介護、家族への責任、そして「高齢女性はこう生きるべきだ」という社会の期待に縛られている。

照子と瑠衣(2025)

照子と瑠衣(2025)

彼女たちが逃げる相手は、一人の誰かではなく、長年、自分たちを縛り続けてきた人生そのものと言える。
家を出て、車を走らせ、見知らぬ土地へ向かう旅は、目的地へ向かうためではなく、これまで生きてきた人生から距離を置くための時間でもある。

映画とドラマの結末は対照的だ。

テルマ&ルイーズ(1991)

テルマ&ルイーズ(1991)

『テルマ&ルイーズ』では、パトカーに包囲されたふたりは覚悟を決めて手を握り合い、グランド・キャニオンの絶壁から車ごと死の大ジャンプを決行する。
『照子と瑠衣』は進路に悩む女子高生(藤﨑ゆみあ)にエールを送り、最終的に、過去のしがらみの象徴である車を手放し、身軽になって次の場所へと旅立っていく。それは、誰かの期待や役割ではなく、自分自身の意思で生きることを選んだ瞬間だった。

照子と瑠衣(2025)

照子と瑠衣(2025)

共通しているのは、どちらにも「元の場所へ戻る」という選択肢がないということだ。彼女たちはもう一度、自分の人生を生きるために旅へ出たのである。どちらも、「逃げたから自由になった」のではない。逃げることで初めて、自分が何に縛られていたのかを知る物語なのである。

『テルマ&ルイーズ』から30年以上が過ぎても、「女性が社会から割り当てられた役割を捨てて旅に出る」という構造は変わっていないと言える。変わったとすれば、その旅の先に物語が見せる未来で、『テルマ&ルイーズ』では自由は死と引き換えだったが、『照子と瑠衣』では、逃げた先にも人生は続いていくということだ。
つまり、今、「逃げる」という行為は、終わりではなく、人生を選び直すための現実的な選択肢になったのである。

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逃げることは、生きることを選び直すこと

かつて物語の主人公とは、困難に立ち向かい、それを乗り越える存在だった。逃げる者は敗北者であり、最後まで戦うことが美徳とされてきた。今、その価値観は変わりつつある。

『逃げるは恥だが役に立つ』は、自分に合わないルールから降り、新しいルールをつくることを描いた。
『Mother』は、社会や法律に背いてでも、逃げることによってしか守れない命があることを示した。
『そして僕は途方に暮れる』は、逃げても自分自身からは逃れられない現実を突きつけた。
『テルマ&ルイーズ』『照子と瑠衣』は、逃げることによって初めて、自分の人生を取り戻そうとした。
これらに共通するのは、「逃げること」の是非ではなく、今いる場所で生き続けることが本当に正しいのかという問いである。

無責任に「逃げろ」とも、「逃げるな」とも言わない。
逃げることで救われる命もあれば、逃げることでしか始まらない人生もある。
逃げるだけでは結局何も変わらないかもしれない。

言ってみれば、逃げるという行為そのものではなく、その先で何を選び直すかこそが重要なのだ。
「逃げる」という選択は、敗北でも勝利でもない。自分の人生をもう一度引き受けるための最初の一歩なのである。


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逃げるという選択肢を選んだ人たちの映画・ドラマ

そして僕は途方に暮れる
「出て行く」たびに大急ぎでリュックに服を詰め、自転車を立ち漕ぎして飛ばす藤ヶ谷太輔は、そのたびに「振り返る」。最後の表情は何とも言えない。
照子と瑠衣
「照子と瑠衣」の感想と評価・独自の考察を交え、キャストや配信情報を徹底レビュー。
逃げるは恥だが役に立つ
「逃げるは恥だが役に立つ」の感想と評価・独自の考察を交え、キャストや配信情報を徹底レビュー。
Mother
「Mother」の感想と評価・独自の考察を交え、キャストや配信情報を徹底レビュー。
テルマ&ルイーズ
「テルマ&ルイーズ」の感想と評価・独自の考察を交え、キャストや配信情報を徹底レビュー。
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