人を「その人」たらしめているものとは何だろうか。
生まれ持った遺伝子か。育った環境か。身体か、脳か、それとも記憶や意識か。
先日逝去した東野圭吾には、主人公を極端な状況に置き、こうした問いを投げかける一連の小説群があった。
『分身』では、同じ遺伝情報を持つ二人の女性が異なる環境で育ち、まったく別の人格を持つ人間になる。『秘密』では一人の人間の身体と人格が切り離され、『変身』では脳の一部が他人のものになり、それまでの人格が揺らいでいく。『カッコウの卵は誰のもの』では才能と遺伝の関係が問われ、『人魚の眠る家』では脳死した人間は「生きている」と呼べるのかという問題にまで踏み込む。
これらの根底にある問いが、「人間は何によって規定されるのか」ということだ。
科学や医療を題材にした作品だけではない。
『手紙』では、自分が犯したわけではない兄の犯罪が弟の人生を規定する。『流星の絆』や『白夜行』では、幼い頃の決定的な出来事が、その後の人生から切り離せないものになる。『容疑者Xの献身』では、一人の他者との出会いが、それまでとはまったく違う生き方を選ばせる。そして『新参者』で加賀恭一郎が解き明かしていくのは、事件の真相だけではなく、その人が誰とどのような関係を結んできたのかという「心の謎」でもある。
遺伝子、身体、脳、意識、血縁、過去、そして他者。
本稿では、条件を変えた思考実験ともいえるその作品群から、家族、犯罪、愛を描いた映像化作品を横断し、東野圭吾が繰り返し問い続けてきた「人間」の輪郭を探ってみたい。
分身(ドラマ:2012)/カッコウの卵は誰のもの(ドラマ:2016)/秘密(映画:1999/ドラマ:2010)/変身(映画:2005/ドラマ:2014)/人魚の眠る家(映画:2018)/手紙(映画:2006/ドラマ:2018)/流星の絆(ドラマ:2008)/白夜行(ドラマ:2006/映画:2011)/容疑者Xの献身(映画:2008)/新参者(ドラマ:2010)
遺伝子は「その人」を規定するか
東野圭吾は、人間を構成すると考えられる要素を一つずつ切り分けて、「その人」がどこにあるのかを探った。

分身(2012)
札幌に暮らす氏家鞠子(長澤まさみ)と東京に暮らす小林双葉(長澤まさみ、二役)は、何の接点もないにもかかわらず、まったく同じ顔をしている。
やがて、二人が同一の遺伝情報を持つ存在として人工的に生み出されたことが判明するのだが、二人は結局、同じ人間にはならなかった。同じ遺伝情報から出発しても、それぞれが生きてきた時間までは複製できないからである。
つまり『分身』は、遺伝子によって人間を規定しようとする物語でありながら、結果として遺伝子だけでは人間を規定できないことを描いている。
では、遺伝子そのものではなく、そこから受け継がれる「能力」ならどうか。
そう問われたのが『カッコウの卵は誰のもの』(ドラマ:2016)である。

カッコウの卵は誰のもの(2016)
柚木の仮説が正しければ、遺伝子によって進むべき道が決まることになるから、遺伝子は間接的にその人の「人生」までをも規定することになる。風美がスキー選手として生きているのは、自分がそれを望んだからなのか。それとも父親が才能を見出し、その道を選んだからなのか。そして、その才能自体が遺伝子によって与えられたものだとすれば、彼女自身の意思はどこにあるのか。
物語は風美の出生の秘密に踏み込み、「才能は誰から受け継いだのか」という科学的な問いと、「自分は誰の子なのか」という血縁の問いが重ねられる。そして、遺伝子によって親子関係を明らかにすることと、誰が親であるのかを決めることは同じではないという結論にいたるのである。
遺伝子は能力の由来を示し、血のつながりを示すこともできるが、托卵するカッコウと同じで、誰がその子を育て、何を期待し、どのような時間を共有してきたのかまでは決められないのである。
このように『分身』『カッコウの卵は誰のもの』の2作は、遺伝子では人の人生を表すことができないことが示された。
では、もし身体とそこに宿る人格を切り離したら、「その人」はどちらに残るのか。『秘密』で試されるのは、そんなさらに厄介な問いである。
身体と人格のどちらが「その人」か
『分身』の鞠子と双葉が同じ遺伝情報を持つ二人の人間であったのに対して、『秘密』(ドラマ:2010)では、「その人」を構成している身体と人格を別々の人間に属するものとして切り離し、そのとき「どちらをその人と呼ぶのか」という思考実験が行われている。

秘密(2010)
直子/藻奈美は、平介にとって、愛する妻のはずなのに見た目は娘というアンビヴァレンツな存在になっている。身体と人格のどちらを本体と考えるべきなのか、平介は悩む。
その答えによっては平介との関係まで変わる。直子であるなら二人は夫婦であるし、藻奈美であるなら二人は父と娘なのだ。

秘密(1999)
ここで示されたのは、「その人」は身体だけでも、記憶だけでも、人格だけでも成立しないということだ。誰かの妻であり、誰かの母であり、誰かの娘であるという関係もまた「その人」を形づくっている。つまり「あなたは誰なのか」という問いは「私はあなたにとって誰なのか」という問いでもあるのだ。
藻奈美の身体は成長し、直子はその身体で新しい人生を経験し、そこに平介には参加できない時間が生まれていく。人格や記憶が連続していても、身体が変われば、その人を取り巻く人間関係も変化する。直子が「藻奈美」として生きるようになるにつれて、平介は、もう一度、妻を失うことになるのである。直子が「藻奈美」として生きることを選んだのだとすれば、それは単なる人格の交代を指すものではなく、別の人生へ進むことでもあるだろう。

変身(2005)
脳は感情や判断、記憶、嗜好と密接につながっている。それらのすべてが脳が生み出しているとすれば、「心」や人格もまた脳の産物ということになる。だとしたら、脳の一部が他人のものになった人間を、同じ「その人」と呼べるのか。
主人公・成瀬純一(玉木宏/神木隆之介)は、画家を目指すごく平凡な青年だが、ある日、強盗事件に巻き込まれて頭部に銃弾を受け、世界初の脳移植手術によって奇跡的に一命を取り留める。身体も記憶もそれまでと変わらないはずだったが、退院後の純一には、それまでにはなかった感情や行動が現れ始める。かつては愛していたはずの恋人・恵(蒼井優/二階堂ふみ)のそばかすも、今では疎ましくしか感じられないようになってしまう。周囲から見れば成瀬純一は顔も身体も名前も同じで、それまでの記憶も持っている。しかし恋人の恵(蒼井優/二階堂ふみ)が愛した穏やかな純一は次第に姿を消し、攻撃性や衝動性が強くなっていく。

変身(2014)
脳という存在は、遺伝子以上に厄介である。遺伝子は生命が誕生したときに与えられる条件だが、脳は、現在の感情や判断、記憶、嗜好と密接につながっている。それらのすべてが脳によって生み出されているのであれば、「心」もまた物質として説明できることになるのだ。
恵は、自分をどのように見つめ、何を好み、何に怒り、どのように愛してくれたのかという人格の総体を含めて、純一という人間を愛していた。それは目の前に存在している身体なのか、現在の脳が作り出している人格なのか、二人が共有してきた時間の中にいる純一なのか。純一の人格が変化していくほど、恵は、いなくなった「以前の純一」を求め続けるのである。

人魚の眠る家(2014)
当初、和昌と薫子は臓器提供を決断しようとするが、瑞穂の手が動いたのを見た薫子はその決断を撤回する。彼女は最先端の技術を使って瑞穂の身体を維持し、さらに神経へ電気刺激を与えて筋肉を動かそうとする。それは瑞穂自身が動いたことになるのかどうか。
ここは本作の残酷さを示すシーンである。
医学は脳の状態を測定でき、生命維持装置によって身体機能を保つこともでき、技術によって筋肉を動かすことさえできるが、そこに瑞穂自身の意思があるのかは確認できない。それでも薫子にとって、ベッドに横たわっている瑞穂は娘であり続けるのだ。
つまりここでも「他者との関係」という問題が前面化されている。
瑞穂の意識を確認できない状態でも、母親が彼女を娘として呼び、触れ、世話をし、回復を信じ続けるかぎり、薫子にとって瑞穂は「その人」であり続ける。その人を記憶しているかぎり、その人との関係を持ち続ける他者の側にとって「その人」は存在し続けるのである。
ここまでで、「その人」を規定するものは、遺伝子や能力、身体、脳、意識といった「人間の内部」だけには求められないことがわかった。そこには必ず、誰に育てられ、誰を愛し、誰から愛されたのかという「他者との関係」が入り込んでくるのだ。
血縁や過去が「その人」の人生を決める
ここで、もっとも濃密な他者との関係と考えられる血縁について見てみよう。誰の子として生まれたのか、誰と家族になったのか、どのような過去を共有したのか、誰を愛したのか。人間は、そうした自分では選ぶことのできない血縁によって規定されている面があるからだ。

手紙(2006)
剛志は弟の学費を得るために盗みに入り、誤って人を殺してしまう。犯罪を犯したのは兄であり、直貴ではないにもかかわらず、「強盗殺人犯の弟」という事実は直貴について回る。昨日まで同じ人物だった直貴が「殺人犯の弟」だと知られた瞬間、別の人間として扱われる。進学、就職、音楽活動、恋愛と新しい人生を始めようとするたび、兄の犯罪が知られることで、直貴はその場所から排除されていく。
『分身』では遺伝子が人を規定するかということが問われたが、ここでは同じように「血縁」は人を規定するかが問われているように見える。
差別される経験を重ねるほど、兄から届く手紙は、兄弟の絆を確かめるものではなく、自分が「犯罪者の弟」であることを繰り返し思い出させるものになっていく。直貴は最終的に、兄との縁を切ろうとし、本作は「血縁は切ることができるのか」という難しい問題に辿り着く。しかし、それで剛志が兄であったという過去まで消えるわけではない。しかも、剛志が犯罪を犯した背景には、弟を大学へ行かせたいという思いがあった。兄の愛情によって起きた犯罪が、結果として弟の人生を壊していくのである。
さて、人を規定する他者との関係は、必ずしも血縁だけではない。同じ出来事を経験し、同じ記憶を抱えて生きることによって、人間は他者と切り離せない関係になることがある。

流星の絆(2008)
三人を結びつけているのは兄妹という絆だが、物語が進み、静奈だけが血のつながりがないことが明らかになっても、その関係が毀損されることはない。ここでは血縁以上に、同じ夜の記憶を抱えて生きてきた時間が、三人を「兄妹」にしているのである。
同じように、ある極端な過去を共有する二人を描いた物語が『白夜行』(ドラマ:2006/映画:2011)である。

白夜行(2006)

白夜行(2011)
愛は「その人」を変えるか
新しく出会った誰かによって、それまでとは違う人間になることがある。

容疑者Xの献身(2008)
高校の数学教師である石神は、かつては天才数学者として将来を嘱望されながら、現在は孤独な生活を送っている。そんな石神の隣室に、花岡靖子(松雪泰子)と娘の美里が引っ越してくる。石神にとって、靖子との出会いは単なる恋愛感情以上の意味を持つものだった。それまで生きることに意味を見いだせなくなっていた彼は、靖子と美里の存在によって生きる理由を得る。そして靖子が元夫を殺してしまったことを知ると、彼女を守るために完全犯罪を設計する。
石神は最初から「献身的な人間」だったわけではない。靖子に出会ったことによって、彼は誰かを守るために自分の能力を使い、自分の人生さえ差し出そうとする人間になった。これが「献身」の意味である。
『手紙』の直貴は、兄との血縁というすでに与えられた関係から逃れようとし、『流星の絆』の兄妹や『白夜行』の二人は幼い頃に共有した過去によって現在を規定されていた。『容疑者Xの献身』の石神を変えたのは、靖子との出会いだった。誰かと出会うことで、それまでとは違う「その人」になること。
数学者である石神が靖子を守るために作り上げた計画は、極限まで合理性を追求したものであり、論理によって他者の行動を予測し、警察の捜査を欺く仕組みだった。しかしその出発点にあるはずの、なぜそこまでして靖子を守ろうとするのかという問いには数学的な答えはなく、そこにあるのはきわめて非合理的な感情である。論理によって人間の行動を完全に組み立てようとする男自身が、論理では説明できない感情によって動いているのである。
ミステリ=「人と人のあいだ」
東野圭吾ファンなら、ここで当然、他者との関係から「その人」を理解しようとする人物を思い出すだろう――加賀恭一郎である。

新参者(2010)
日本橋署に赴任してきた加賀恭一郎(阿部寛)は人形町という共同体にやって来た「新参者」だ。よそものである彼は、人々の過去も関係も知らないからこそ、目の前の人物だけを見て判断せず、その人を取り巻く関係を一つずつたどっていくしかない。その結果、事件の真相だけでなく、そこに暮らす人々自身も、それまでとは違って見えてくる。
加賀が追うのは日本橋人形町で起きた一人暮らしの女性の殺人事件だが、彼は犯人を特定する物証だけでなく、人々のつく小さな嘘に徹底的にこだわる。
その人はなぜ嘘をついたのか。誰に知られたくなかったのか。誰を守ろうとしたのか。その理由を一つずつ解き明かしていくと、事件とは直接関係がないように見えた家族や恋人、友人たちの関係が浮かび上がってくる。だから加賀が調べているのは犯罪だけではなく、「その人が、誰にとってどのような人なのか」ということだ。
一人の人間と、その周囲にいる人間との線を一本ずつ結んでいくことで、「その人」の輪郭を浮かび上がらせること。
ミステリとは、事件においてその人が「何をしたのか」を明らかにする物語だが、東野圭吾が繰り返し描いてきたのは、そのさらに手前にある「なぜその人はそうしたのか」という謎だった。
遺伝子を同じにしても、同じ人間にはならない。身体と人格を切り離しても、「その人」を一方だけに置くことはできない。血縁や過去は人生を縛るが、それだけで未来を決めるわけでもない。そして一人の他者との出会いによって、人はそれまでとは違う人間にもなる。
だから「その人」を規定するものは一つではなく、生まれ持ったもの、生きてきた時間、そして何より、その時間の中で誰と出会い、どのような関係を結んできたかという重なりの中に「その人」はいる。
東野圭吾はそうした「人間とは何者なのか」という大きな謎を解き続けた作家と見ることができるだろう。

