【横断考察】女がモンスターとなる時

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「リカ」(209・2021)
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「女モンスター物」とでも呼ぶべきジャンルがある。

単なる女性ヴィランの話ではない。「女であること」そのものが社会の中で歪められ、抑圧され、逸脱へと追い込まれた末に生まれる怪物の話だ。彼女たちは必ずしも生まれながらの悪ではない。むしろ社会が女性に求める「優しさ」「献身」「母性」「従順さ」を極端なまでに内面化した結果として、常軌を逸した存在へ変わっていく。だから単純なサイコパスとも違う。ある意味で、過剰に社会的なのだ。

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原型としての『モンスター』

モンスター(2003)

このジャンルを語る上で外せないのが、シャーリーズ・セロンがアカデミー主演女優賞を受賞した映画『モンスター』(2003)だ。実在したアメリカ初の女性連続殺人犯、アイリーン・ウォーノスの半生を描いている。

幼少期から虐待され、路上生活と売春を繰り返し、人間として扱われる経験をほとんど持たなかったアイリーンは、初めて心を許した女性セルビーとの生活を守ろうとする中で、男たちを殺していく。最初の殺人は自己防衛に近かった。しかしその怒りと恐怖と絶望は暴走し、彼女自身を変えていく。

セロンは体重を増やし特殊メイクで挑み、ハリウッド的な女性の美しさを徹底的に剥ぎ取った。そこには「女性は美しく、愛される存在であるべき」という価値観そのものへの反逆がある。それでもこの映画は、彼女を単純な怪物として描かない。セルビーに向ける不器用な愛情、見捨てられることへの怯え、人間として扱われたいという渇望——怪物と人間の境界が曖昧になっていく痛みが、ずっと画面に残る。

女性の怪物化とは、個人の異常性ではなく、社会によって追い込まれた結果として描かれる。それがこのジャンルの核にある。

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『エリカ』——モンスターは「他者の視線」から生まれる

エリカ(2025)

エリカ』(2025年、原作は2014年連載)は、モンスター化した女を描く作品の中でも、かなり原初的な恐怖に近い。
物語は、臨時採用された高校教師・青嶋一哉(渡辺大和)が、クラスに馴染めていない女子生徒・閉野恵里佳(茅島みずき)と関わるところから始まる。
青嶋にとって恵里佳は、最初は「問題を抱えた生徒」である。彼女を救い、クラスに戻し、教師としての役割を果たすことができれば、自分の本採用にもつながるかもしれない。つまり、青嶋は善意と打算のあいだで彼女に近づく。
しかしその瞬間から、境界は崩れ始める。

教師と生徒。
大人と未成年。
救う者と救われる者。

そのはずだった関係が、いつの間にか「追う者」と「追われる者」へ反転していく。

恵里佳の怖さは、最初から暴力的な悪女として登場することではない。むしろ彼女は、クラスに馴染めず、家庭環境にも問題を抱えているように見える。だからこそ周囲は、彼女を拒絶しにくい。教師である青嶋にとっては、なおさらそうである。

見捨ててはいけない。
傷つけてはいけない。
理解してあげなければならない。

その教育的・倫理的な構えが、逆に彼を逃げられない場所へ追い込んでいく。
この作品におけるモンスター性は、まさにそこにある。

エリカは「異常な女」だから怖いのではない。
彼女は本来、保護されるべき存在として現れる。しかしその弱さが、やがて他者の生活へ侵入する力に変わっていく。
ドロドロ弁当、肩パン合戦、ストーキング、そして「臭い」という身体的な違和感。
それらの描写は、エリカが単なる心理的な厄介者ではなく、空間そのものを汚染していく存在であることを示している。
とりわけ「臭い」というモチーフは重要である。
視線や言葉による支配ではなく、彼女はまず身体感覚として周囲に侵入してくる。
見ないようにしても、聞かないようにしても、臭いだけは避けられない。
それは、エリカという存在が青嶋の日常に染み込み、恋人との生活や教師としての未来を少しずつ侵食していくことの比喩でもある。

次に取り上げる『リカ』の怪物性が愛の暴走だとすれば、『エリカ』の怪物性は、もっと手前にある。それは「かわいそうな少女」を前にしたとき、誰もが無防備になってしまうという怖さである。
善意で近づいた相手が、いつの間にか自分の生活を壊し始める。救うつもりだった相手に、逆に取り込まれていく。
ここに、『エリカ』が描く女モンスターの原型がある。

モンスターは、最初から怪物の顔をして現れるわけではない。むしろ最初は、こちらが手を差し伸べるべき存在として現れる。
だからこそ怖いのである。

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『リカ』──愛が純粋すぎると、人はモンスターになる

リカ(2019・2021)

リカ』(2019・2021年)の雨宮リカ(高岡早紀)ほど恐ろしい女は、近年の日本のドラマにはそう多くない。

リカは、出会った男性に対して異常なまでの執着を見せるが、彼女自身には悪意がほとんどない。復讐しようとしているわけではないし、権力を求めているわけでも、金が欲しいわけでもない。ただ愛されたいだけなのである。
だからこそ怖い。

物語前半で彼女がターゲットにするのは、大矢昌史(小池徹平)が勤務する病院の副院長・大矢隆雄(大谷亮平)である。リカは患者として現れ、やがて隆雄に接近していく。
当初、その行動は少し積極的な女性程度にしか見えないが、次第に、電話、待ち伏せ、侵入、脅迫へとエスカレートし、愛を拒絶する者は次々と排除されていく。
ここで重要なのは、リカが決して自分を加害者だと思っていないことである。
むしろ彼女は一貫して「愛し合う二人の未来」を信じている。邪魔者がいる。だから取り除く。ライバルがいる。だから消えてもらう。その論理は恐ろしく単純だ。しかし本人の中では完全に正当化されている。
普通の犯罪者なら、自分の行為を隠そうとするが、リカは違う。彼女は本気で愛を語る。本気で結婚を夢見る。本気で幸せな家庭を想像している。
つまり彼女は嘘をついていない。だから周囲は余計に対応できない。

サスペンス作品に登場する悪女の多くは、欲望のために他者を利用するが、本作では、彼女自身が自らの恋愛幻想の最初の犠牲者なのである。

考えてみれば、恋愛ドラマの主人公たちもまた「運命の相手」を信じている。どんな障害があっても愛を貫き、相手のことだけを考え、永遠の愛を誓う。本来、恋愛ドラマはそうした価値観を肯定してきた。
リカはその論理を極端なところまで押し進めた存在である。
だから彼女は恋愛ドラマの外部にいる怪物ではない。むしろ恋愛ドラマが理想化してきた愛情の、恐るべき裏面なのだ。

『エリカ』では、他者との距離感を失った少女が描かれ、『リカ』では、その距離感の喪失がさらに進み、「相手も自分を愛しているはずだ」という絶対的確信へと変わる。そこでは他者の意思は存在しない。
存在するのは、自分が信じる愛だけである。

だから『リカ』はストーカーの物語ではない。愛という社会的に最も美しい感情が、他者の人格を認めなくなったときに生まれるモンスターの物語なのである。

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『泥濘の食卓』──「善意」がモンスターになるとき

泥濘の食卓(2023)

『リカ』の雨宮リカは、自らの恋愛感情を絶対視する女だった。
それに対して『泥濘の食卓』(2023年、原作コミックは2020〜2025年連載)の捻木深愛(齊藤京子)は、もっと穏やかに見える。
大声で愛を叫ばないし、誰かを脅迫するわけでもない。しかし見ているうちに、観客はある種の居心地の悪さを覚え始める。
なぜなら彼女は、他人との距離を測ることができないからである。

深愛はアルバイト先の店長・那須川夏生(吉沢悠)に恋をする。
問題は、夏生には妻も子どももいることだ。
普通の恋愛ドラマなら、そこで諦めるか、あるいは奪い合いになるところだが、深愛は違う。
彼女は家庭の外側から少しずつ侵入していく。
最初は店長を心配する。次に家庭環境を知る。やがて妻や子どもとも接触し始める。そして気がつくと、彼女は家族の一員のような位置に入り込んでいる。
ここに、本作の恐怖がある。

深愛は破壊者として現れない。むしろ救済者として現れる。妻が苦しんでいるなら支えたい。子どもが寂しいなら助けたい。店長が疲れているなら寄り添いたい。その善意は本物である。だからこそ周囲は警戒しにくい。
しかし彼女の行動は結果として家族の境界を侵食していく。

興味深いのは、深愛自身もまた救済を求めていることだ。
彼女は虐待的な家庭環境の中で育ち、自分が愛される経験を十分に持たない。だから夏生の家庭に惹かれる。
その家庭は決して幸福ではない。むしろ傷だらけなのだが、深愛には、それが「自分が入り込む余地のある家族」に見えてしまう。
ここで彼女の恋愛は変質する。
もはや店長個人への恋ではなく、彼が属している家族全体への欲望になっている。
つまり深愛が求めているのは恋人ではなく、「居場所」なのである。

そのため彼女は、家族を壊そうとしているのか、救おうとしているのか、自分でも分からなくなっていく
そしてその頃には、本当に悪いのは深愛なのか、暴力的な父親か、機能不全に陥った家庭か、あるいは孤独なまま放置されてきた社会そのものなのか、観る者もまた判断できなくなっている。

『リカ』が「愛の暴走」を描いた作品だとすれば、『泥濘の食卓』が描くのは「善意の暴走」である。
誰かを助けたい、誰かの役に立ちたい、誰かに必要とされたい。本来は美徳とされる感情が、他者との境界を失ったとき、かえって危険なものへ変わってしまう。
だから深愛は悪女ではない。むしろ優しすぎる。献身的すぎる。しかしその優しさが際限なく膨張したとき、人は他人の人生にまで入り込んでしまう

『エリカ』では承認を求める少女が、『リカ』では愛を絶対視する女が描かれた。『泥濘の食卓』では、「誰かのためになりたい」という善意そのものがモンスターへ変わる。
本作が不気味なのは、その動機にほとんど悪意が存在しないからなのである。

『絶対正義』──正しい人間が最も恐ろしい

絶対正義(2019)

『リカ』の雨宮リカは愛を信じすぎた。
『泥濘の食卓』の深愛は善意を信じすぎた。
そして『絶対正義』(2019年、原作小説は2016年刊)の高規範子(山口紗弥加)は、正しさを信じすぎた。

この作品が恐ろしいのは、範子が一度も間違ったことを言わないことである。
嘘をついてはいけない。約束は守らなければならない。不倫は悪いことである。ルールは守るべきである。彼女の主張は、どれも社会的には正論で、むしろ反論するほうが難しい。しかし物語が進むにつれて、観客は次第に気づき始める。
問題は彼女の言葉ではない、その正しさを他人にも強制することなのだと。

範子は学生時代から一貫して友人たちの嘘や不正を許さず、小さなごまかしも見逃さなかった。誰かがルールを破れば指摘し、約束を守らなければ追及する。
普通なら人間関係の中で曖昧に処理される部分を、彼女だけは決して曖昧にしない。だから周囲は息苦しくなる。
人間は必ずしも正しく生きられない。時には嘘をつく、約束を破る、見て見ぬふりをする。社会はそうした曖昧さによって成り立っている。しかし範子にはその曖昧さが理解できないか、理解していても受け入れられない。
その結果、彼女は正義の執行者になっていくのである。

興味深いのは、範子自身には悪意がないことで、これは『リカ』や『泥濘の食卓』とも共通している。彼女は人を苦しめたいわけではない。ただ正しいことをしたいだけなのである。だから自分が誰かを追い詰めているという感覚がない。むしろ相手のためだと信じている。
ここにモンスターの条件がある。

怪物とは、自分を怪物だと思っている人間ではない。自分が善であると確信している人間である。だから範子は止まらない。愛のためなら諦めることもできる。善意なら引き返すこともできる。しかし正義には終わりがない。正しいことをしている限り、自分を疑う必要がないからである。

考えてみれば、このドラマが放送された時代はSNSが社会の中心になり始めた時代でもあった。
誰かの失言を告発する。不適切な行動を糾弾する。倫理的に問題のある人物を排除する。そうした行為の多くは「正義」の名のもとに行われる。
もちろん、その中には必要と思われる批判もありはするが、問題は、その正義がいつの間にか他者への攻撃へ変わることである。
『絶対正義』は、その危うさを極端な形で可視化したドラマだった。
『リカ』では愛がモンスターを生み、『泥濘の食卓』では善意がモンスターを生んだが、本作では、社会が最も価値あるものとして称賛する「正しさ」そのものがモンスターを生んでいる

だからこの作品の恐怖は特殊なものではなく、むしろ私たち自身の中にある。
誰かを「間違っている」と思った瞬間、自分もまた高規範子になり得るのである。

『女がモンスターとなる時』というテーマで見れば、範子は完成された怪物である。なぜなら彼女は欲望に支配されているのではない。
正義そのものになってしまったからである。

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『ディアマイベイビー〜私があなたを支配するまで〜』──愛の終着点としての支配

ディアマイベイビー〜私があなたを支配するまで〜(2025)

『リカ』の雨宮リカは、愛する相手と結ばれることを夢見ていた。
『泥濘の食卓』の深愛は、誰かの役に立ちたいと願っていた。
『絶対正義』の範子は、正しい世界を実現しようとした。

ディアマイベイビー〜私があなたを支配するまで〜』の吉川恵子(松下由樹)が求めるものは、もっと根源的である。
彼女は相手の愛を求めているように見えるが、実際には違う。彼女が欲しいのは、相手そのものなのである。

物語は芸能マネージャーである恵子が、森山拓人(野村康太)という若者に目を留めるところから始まる。彼には才能があり、スターになれるかもしれないと恵子は確信し、異常なまでの情熱を注ぎ始める。
最初、その姿は、新人を発掘し、育て、成功へ導こうとする有能なマネージャーに見える。芸能界ではむしろ美談として語られてもおかしくない。
しかし観る者はすぐに違和感を覚える。恵子は拓人を育てているのではない、管理しているのだ。交友関係に介入し、恋愛を監視し、仕事を選別し、彼の人生そのものを、自らの手で設計しようとする。そこではもはや「応援」と「支配」の境界が消えている。

恵子は常に「あなたのため」という言葉で行動する。
成功してほしい。失敗してほしくない。傷ついてほしくない。その言葉だけを聞けば、愛情や献身と区別がつかないが、問題は、拓人自身の意思が次第に排除されていくことだ。彼が何を望んでいるのか、どう生きたいのか、その問いは徐々に意味を失う。代わりに前面へ出てくるのは、「恵子が望む拓人」である。つまり彼女は、人を愛しているのではなく、人を作品として愛しているのである。
この点で恵子は、これまで登場したモンスターたちとは決定的に異なる。
リカは相手から愛されたいと願った。深愛は相手の役に立ちたいと願った。範子は相手を正しい方向へ導こうとした。しかし恵子は、相手を自分の理想通りに作り変えようとする。それは恋愛ですらない。教育でもない。
支配である。
しかもその支配は暴力によって行われるのではなく、愛情によって行われる。だから逃げにくく、気づきにくく、恐ろしい。

考えてみれば、親子関係にも、恋愛にも、教育にも、この危険は潜んでいる。「あなたのため」という言葉は美しいが、その言葉が「あなたは私の望む人間になるべきだ」という意味に変わった瞬間、愛情は支配へ変質する。本作が描いているのは、まさにその瞬間である。

『エリカ』では承認欲求が怪物を生んだ。『リカ』では愛が怪物を生んだ。『泥濘の食卓』では善意が怪物を生んだ。『絶対正義』では正しさが怪物を生んだ。
そして『ディアマイベイビー』では、愛情と保護欲そのものが支配へ変わる。

ここに至ってモンスターは完成する。
なぜなら彼女は、相手を傷つけようとしているのではない。相手を幸福にしようとしている。その確信こそが、最も危険だからである。

『女がモンスターとなる時』というテーマで見るなら、この作品が示しているのはひとつの結論だ。
モンスターとは悪意から生まれるのではなく、愛、善意、正義、保護欲といった、人間が美徳と呼ぶ感情が極限まで純化されたときにこそ生まれるのである。

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女モンスター物が映し出すもの

これらの作品に登場する女たちは、それぞれまったく異なる。

愛を求める者がいる。
誰かの役に立ちたいと願う者がいる。
正しさを貫こうとする者がいる。
大切な人を守ろうとする者もいる。

しかし彼女たちは皆、ある地点でモンスターになる。

その出発点には悪意がほとんど存在しない。
『リカ』の原動力は愛、『泥濘の食卓』を動かしていたのは献身、『絶対正義』を支配していたのは正義、『ディアマイベイビー』の根底にあるのは保護欲。
どれも本来は社会が美徳として称賛する感情ばかりだから、観る者は彼女たちを単純な悪人として切り捨てることができない。

怖い。
その気持ちの出発点は理解できるからこそ、これらの作品を不気味なものにしている。

考えてみれば、モンスターとは異常な存在ではなく、人間の感情が極端な形で純化された存在である。
愛が行き過ぎれば執着になる。献身が行き過ぎれば侵入になる。正義が行き過ぎれば弾圧になる。保護欲が行き過ぎれば支配になる。
彼女たちは社会の外側から現れた怪物ではない。
むしろ私たち自身が日常的に抱いている感情の延長線上にいるからこそ恐ろしいのである。

女モンスター物とは、「女性が壊れた物語」ではない。「女性を壊す社会」の物語でもない。それは、人間が善いものだと信じている感情が、どこで他者への暴力へ変わるのかを描くジャンルである。そして観客が本当に見ているのは怪物そのものではない。怪物へと変わっていく感情の軌跡なのだ。
だから私たちは彼女たちを恐れながらも目を離せない。そこに映っているのは、私たち自身の感情の最も危うい可能性だからである。


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女モンスターの物語

エリカ
エリカのモンスターとしてのフックは「臭い」ということで、渡辺は体臭と表現するのだったが、いったいどういう臭さなのかと想像が刺激される。
ディアマイベイビー〜私があなたを支配するまで〜
この令和の時代に松下由樹主演のドラマが始まるだけでも驚きなのに、しかもホラーで、ストーカー的に狂った芸能マネージャー役という微妙な役。松下はどこへいこうとしているのか。
嗤う淑女
「大人の土ドラ」ふうの演出だと思ったら、松木創という人はあの高岡早紀の「リカ」のチーフ監督なのだった。しかしまあ、夏だから怪談をという安易な路線であるように思う。
泥濘の食卓
齋藤京子が演じているのは「初恋、ざらり」を彷彿とさせる自己肯定感が極端に低いヒロインなのだが、どうも、パラサイト不倫ということなので、これは一種のスリラーなのだろう。
リカ
高岡早紀がしつこく「28歳です」と自己紹介するのにのけぞった視聴者は多いと思う。
絶対正義
東海テレビが期待を裏切らないドロドロ劇を展開している。「大人の土ドラ」枠以外では不可能なドラマだ。
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