【横断考察】モチーフとしての「聾唖」

川口春奈(Silent)
川口春奈(Silent)
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かつてドラマや映画における「障碍」は、その時代の世界観を映し出す象徴として機能していた。「盲目」はその典型で、”見えない者こそ真実を見る”という逆説と深く結びついていた。ギリシャ悲劇の時代から続くその構図は、近代的な「世界には真理があり、人間はそこへ到達できる」という信念と表裏一体だった。

しかし近年、映像作品で強い存在感を放っているのは「聾唖」というモチーフである。ここで問われるのは「見えない」ことではなく、「伝わらない」ことだ。この微妙な、しかし決定的な差異が、現代という時代の不安を照らし出している。

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盲目が問うたもの、聾唖が問うもの

暗くなるまで待って(1966)

暗くなるまで待って(1966)

「暗くなるまで待って」のオードリー・ヘップバーンは、視覚を奪われながら感覚を研ぎ澄ませ、真実へ到達する。「座頭市」の勝新太郎もまた、盲目ゆえに世界の本質を”見る”。盲目の表象には、欠如が超越的認識へと反転するという構造がある。

聾唖はそうではない。

聴覚と言語は「他者との接続」に関わる感覚だ。だから聾唖を扱う作品は、真理への到達不能ではなく、意味の共有不能へ向かう。世界に真実はあるか、という問いではなく、そもそも言葉は他者へ届くのか、という問いへ。この転換は、作品のトーンそのものを変える。

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『愛していると言ってくれ』——沈黙が恋愛を成立させる逆説

愛していると言ってくれ(1995)

愛していると言ってくれ(1995)


1995年の『愛していると言ってくれ』は、日本のテレビドラマにおける聾唖表象の決定版とも言うべき作品である。
聴覚障害を持つ画家・榊晃次(豊川悦司)と、女優を目指す水野紘子(常盤貴子)の恋愛を描いたこのドラマは、高視聴率を記録しただけでなく、「手話による恋愛ドラマ」というジャンルそのものを広く浸透させた。

この作品の本質は「障害を乗り越える純愛」ではない。興味深いのは、晃次が声を持たないことで、恋愛ドラマの常識そのものが組み替えられている点にある。

通常の恋愛ドラマのフォーマットでは、登場人物は言葉によって気持ちを説明し、誤解を解き、愛を告白する。しかし晃次にはそれができないため、紘子は常に「相手が何を考えているのか分からない」という不安の中に置かれることになる。
象徴的なのが、紘子が晃次の気持ちを確かめようとしても、彼が背を向けたまま何も答えない場面である。ここでは観る者もまた紘子と同じ位置に立たされる。愛されているのか、拒絶されているのか。その沈黙が緊張を生み出している。

また、このドラマでは手話そのものがラブシーンとして機能している。
有名なのが、晃次が手話で「愛している」と伝える場面。普通の恋愛ドラマなら何気ない一言で済む告白が、この作品では長い逡巡と沈黙の末にようやく発せられる。そのため視聴者は、言葉の重みを通常以上に強く感じることになる。

さらに晃次は、感情を言葉ではなく身体で表現する人物として描かれる。
振り向く動作、視線、表情、手話の速度や強さ。
それらがセリフ以上の意味を帯びる。
豊川悦司の人気が爆発したのも、こうした「語らない男」の魅力が大きかった。

考えてみれば、このドラマにおいて聾唖は単なる設定ではない。
それは、恋愛そのものが本来抱えている「相手の心は完全には分からない」という不安を可視化する装置なのである。

だから『愛していると言ってくれ』は、聾唖者の恋愛を描いたドラマである以上に、「人は本当に分かり合えるのか」という恋愛ドラマの根源的なテーマを描いた作品だったと言えるだろう。

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「恋愛のその後」を描く——『君の手がささやいている』

君の手がささやいている1997〜2001)

君の手がささやいている
(1997〜2001)

君の手がささやいている』(1997〜2001)では、日本のテレビドラマにおける聾唖表象を大きく前進させた作品である。

野辺美栄子(菅野美穂)は先天性の聴覚障害を持つ女性だ。健聴者の博文(武田真治)と出会い、恋愛し、結婚し、やがて子どもを育てていくさまを描いたドラマである。
それまでの聾唖ドラマの多くが「恋に落ちるまで」を描いていたのに対し、本作はいわば「恋愛の後」を描いている。

美栄子は会社で働き、結婚生活を送り、出産し、子育てに悩み、周囲との人間関係に傷つく。
そこで描かれるのは劇的な差別や悲劇ではない。

たとえば職場で会議の内容が十分に伝わらない場面。
電話連絡が前提になっている職場環境に戸惑う場面。
病院や役所で説明を受けても細部が理解できず不安になる場面。

どれも犯罪や事故のような大事件ではなく、聴覚障害者が日常的に直面する小さな困難である。
しかし本作は、その「小さな困難」の積み重ねこそが社会的な障壁であることを丁寧に描いていく。

また、結婚後の夫婦関係の描写も特徴的である。

博文は理想的な理解者として描かれる一方で、常に完璧ではない。美栄子の苦しみを理解しようとしても、健聴者である以上、完全には共有できない。そのため夫婦の間にはしばしばすれ違いが生じる。

印象的だったのは、美栄子が「特別扱いされたくない」と願う場面だ。
周囲は善意で助けようとするが、その善意が時として彼女を傷つける。障害者を守るべき存在として見る視線と、一人の自立した大人として扱われたいという本人の願いが衝突するのである。

さらに物語が進むと、美栄子は母親になる。
子どもの泣き声が聞こえないことへの不安、自分が障害を持つ母親であることへの葛藤、周囲の偏見。
ここで初めて、聾唖というテーマは恋愛から家族へと拡張される。

こうした描写によって、『君の手がささやいている』は「障害を持つ人も恋愛できる」という段階から、「障害を持つ人も普通に人生を生きている」という地点へ到達した。
この作品の聾唖は、もはや悲劇や感動を生むための特殊な設定ではない。社会の中で働き、結婚し、子どもを育てる一人の生活者として描かれている。
だから本作は、聾唖者を特別な存在として眺めるドラマではなく、聾唖者と健聴者が同じ社会をどう共有していくのかを問いかけるドラマだったと言える。

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CODA=境界に立つ人を描いたドラマ『しずかちゃんとパパ』

しずかちゃんとパパ(2022)

NHKドラマ『しずかちゃんとパパ』(2022年)は、聾唖を扱った作品の中でもきわめて現代的な視点を持った作品である。

このドラマの主人公は、ろう者の父・野々村純介(笑福亭鶴瓶)ではなく、その娘である静(吉岡里帆)だ。
純介は生まれつき耳が聞こえず、手話で生活している。一方、静は聴者として生まれ、幼い頃から父の通訳役を務めてきた。

いわゆる「CODA(Children of Deaf Adults)」とは、聾者の親を持つ聴者の子どもを指す言葉で、近年では映画『コーダ あいのうた』によって広く知られるようになった。彼らは聴者でありながら、家庭の中では聾文化の中で育つ。幼い頃から役所や病院で親の通訳をし、電話の応対をし、社会と家族をつなぐ橋渡し役を担うことも少なくない。
静もまた典型的なCODAであり、彼女が父の代わりに電話を受けたり、行政手続きや近所付き合いの場で自然に通訳役を引き受けたりする。本人にとっては当たり前の日常であり、そこに犠牲者意識はない。
しかしドラマを観続ければ、静は娘であると同時に、長年にわたって父と社会をつなぐ「通訳者」としても生きてきたのだということがだんだんわかってくる。

このドラマが描いているのは、聾唖者の苦労だけではない。むしろ「ろう者の家族は何を背負うのか」という問題である。
恋愛を通じて自分の人生を歩み始めようとする静にとって、父の存在は愛情の対象であると同時に、自立をためらわせる要因にもなる。

自分が家を出たら父は困るのではないか。
自分だけが幸せになっていいのだろうか。

そうした葛藤は、多くのCODAが経験すると言われる感情でもある。
しかし本作は、その関係を悲劇として描くことはしていない。純介は決して無力な存在ではなく、近所の人々と交流し、自分の人生を楽しみ、娘の幸せを心から願っている。
だから静が向き合うべき課題は、「父を支えるか、自分の人生を選ぶか」という二者択一ではなく、親子が互いに自立した存在として生きながら、それでも家族であり続けるにはどうすればよいのか、という問いなのである。

『愛していると言ってくれ』や『silent』では、聾唖は恋愛におけるコミュニケーションの壁として描かれ、『君の手がささやいている』では、社会の中で生きる当事者の生活が描かれた。
それに対して『しずかちゃんとパパ』では、聾唖者本人ではなく、その周囲で生きるCODAの視点から世界を見つめ直している。

つまりこのドラマは、「耳が聞こえない人」の物語ではなく、「二つの世界のあいだで生きる人」の物語なのである。

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『ファイトソング』「聞こえなくなる前」の時間

ファイトソング(2022)

ファイトソング』(2022年)は、一見すると挫折したスポーツ少女と売れないミュージシャンの恋愛ドラマなのだが、その根底には、「音を失うかもしれない」という不安が横たわっている。

主人公・木皿花枝(清原果耶)は空手選手として将来を期待されていたが、事故による後遺症のため競技人生を断念する。さらに彼女は、徐々に聴力を失う可能性を抱えている。

ここで重要なのは、花枝がまだ聾者ではないという点である。

『愛していると言ってくれ』の晃次や『silent』の想は、すでに聴覚を失った世界を生きていたが、花枝が生きているのは、「いつか聞こえなくなるかもしれない」という予兆の世界だ。
だからこのドラマでは、聞こえることそのものが特別な意味を持つ。

象徴的なのは、花枝と芦田春樹(間宮祥太朗)を結びつける楽曲「スタートライン」である。
もともと春樹の曲に励まされたことが二人の出会いのきっかけだったが、その歌は次第に二人の関係の象徴になっていく。

普通の恋愛ドラマであれば、主題歌は背景に流れるだけのものだが、『ファイトソング』において、花枝にとっての音楽は、失われるかもしれないものだから、彼女が曲を聴く場面には常に切実さが宿る。
いま聞こえているこの歌声を、いつまで聞くことができるのだろうかという不安が、観る者に明示されないまま物語全体を覆っている。

花枝は自らの難聴の進行について周囲に積極的には語ろうとしない。それは障害を恥じているからではなく、未来を決めつけたくないからである。
この態度は、『silent』の想が難聴になった後、自ら人間関係を断ち切ろうとした姿ともどこか重なって見える。

決定的な違いがあるとしたら、想の物語が「失った後の再生」ならば、花枝の物語は「失うかもしれない未来を抱えながら現在を生きる」物語であることだろう。

本作では聴覚障害そのものよりも、「限りある時間」がテーマになっている。
春樹は音楽家として行き詰まり、花枝は競技人生を失い、さらに聴力の喪失という不安を抱えている。
彼らはともに、永遠には続かないものの中で生きている。
だからこそ恋愛もまた、「いつか終わるかもしれないもの」として描かれる。

『愛していると言ってくれ』が沈黙の中で愛を語ったドラマだとすれば、『ファイトソング』は、まだ聞こえているうちに何を伝えるのかを問うドラマだった。

本作における難聴は、今この瞬間の言葉や音楽や人とのつながりが、どれほどかけがえのないものなのかを浮かび上がらせる装置なのである。

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『silent』という「ズレの物語」

silent(2022)

silent(2022)

聾唖を扱ったドラマとしては異例の社会現象となった『silent』(2022)は、再会ラブストーリーを装いながら、実際には「かつて成立していた言語共同体の崩壊」を描いていた。

このドラマが画期的だったのは、「耳が聞こえない人の苦労」を描くことよりも、「伝えたいのに伝わらない人間関係」を描いたことにある。

ヒロインの青羽紬(川口春奈)は、高校時代に恋人だった佐倉想(目黒蓮)と再会するが、想は若年発症型両側性感音難聴によって聴力を失い、手話を使って生活していたというのが第1話のあらましである。

この最初の場面で、高校時代と同じように言葉を投げかける紬に対し、想がほとんど反応しないので、観る者は、想が冷たい人間になったと思う。しかし、それが聞こえないからではなく、「聞こえなくなった自分を見られたくない」という想の苦しみだったことが分かるのである。

手話を覚え始めた紬が、ぎこちない手つきで想に気持ちを伝えようとする場面も重要である。そこでは、「障害を乗り越える感動」ではなく、相手の世界へ近づこうとする努力が描かれている。

印象的なのは、想が手話で感情を爆発させるシーン。
ここで目黒は、声を失った人物としてではなく、怒りや悲しみや愛情を全身で表現した。
従来の同種のドラマにおいて、聾唖者は「静かな人」「守られる人」として描かれることが多かったが、『silent』の想はむしろ感情表現が豊かな人物なのである。

その結果、『silent』における聾唖は身体的な欠損ではなく、「同じ言葉を持たない者同士がどう理解し合うか」というテーマへと変換されている。
だからこのドラマは聾唖の物語であると同時に、あらゆる恋愛ドラマが抱える「分かり合えなさ」の物語でもあったのである。

想が手話を使い、紬が音声言語を使うという構図は、単なる障害者と健常者の関係ではない。ポストモダン以降のドラマにしばしば見られる『異なる言語ゲームの衝突』として読むこともできる。

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沈黙する者だけが真実を知っている『毒戦 BELIEVER』

イ・ジュヨン(毒戦 BELIEVER)

イ・ジュヨン(毒戦 BELIEVER)

韓国映画『毒戦 BELIEVER』(2018)は、一見すると麻薬組織を追う犯罪サスペンスである。しかし、その物語の中心には意外にも聾唖の兄妹が置かれている。

キム・ドンヨンイ・ジュヨンが演じる聾唖の兄妹は、巨大麻薬組織の製造工程に関わっているが、多くを語ろうとしない。
この設定は単なるキャラクター造形ではない。
なぜなら『毒戦 BELIEVER』という作品そのものが、「誰の言葉を信じればいいのか分からない映画」だからだ。
主人公の刑事ウォノ(チョ・ジヌン)は組織のボスである“イ先生”を追うが、どの登場人物も自分の利益のために嘘をつき、裏切り、正体を偽っている。物語が進むほど真実は見えなくなり、観客は誰を信じればいいのか分からなくなる。
そんな中で異様な存在感を放つのがドンヨンとジュヨンの兄妹なのである。
彼らは多くを語らないが、その代わりに観察し、理解し、記憶している。
兄妹が製薬設備の中で淡々と作業を続ける場面。
周囲では組織の人間たちが策略を巡らせ、暴力と裏切りが繰り返される。しかし兄妹だけはその騒乱から一歩距離を置いた場所にいる。
まるで彼らだけが、この世界の本質を見抜いているかのようである。

また、兄妹同士が手話で交わす会話は、観客にとってもしばしば理解不能なまま提示され、観る者は、刑事たちと同様、「何が語られているのか分からない」状態に置かれる。
ところが、この映画で本当に信用できないのは手話ではなく音声言語のほうなのだ。
言葉を発する人物たちは次々と嘘をつくが、兄妹のやり取りには虚飾がない。彼らは沈黙しているのではなく、必要以上のことを語らないだけなのである。

こうして『毒戦 BELIEVER』における聾唖は、障害の表象ではなく、「言葉が機能不全に陥った世界」の象徴となる。
言葉によって他者を欺こうとする登場人物の中にあって、最後まで真実に近い場所にいるのは、最も言葉から遠い場所にいる兄妹だった。

だからここでの聾唖はコミュニケーションの欠如ではなく、言葉が氾濫しすぎた世界においてのみ現れる、もう一つの真実のあり方なのである。

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コミュニケーション論という問い

盲目のモチーフが「世界の真実は何か」という認識論の問いを担うとすれば、聾唖のモチーフが問い続けているのは、「その真実を他者と共有することは可能なのか」というコミュニケーション論である。

『愛していると言ってくれ』では、恋人たちは互いを愛しながらも完全には理解し合えなかった。
『君の手がささやいている』では、当事者と社会とのあいだに存在する目に見えない壁が描かれた。
『しずかちゃんとパパ』では、ろう者と聴者の二つの世界を行き来するCODAの姿を通じて、「橋渡しをする者」の孤独と役割が浮かび上がった。
『ファイトソング』では、失われるかもしれない聴覚が、いま交わされる言葉や音のかけがえのなさを照らし出した。
『silent』になると、聾唖はもはや障害ではなく、異なる言語世界を生きる者同士のすれ違いそのものの比喩となる。
そして『毒戦 BELIEVER』ではさらに一歩進み、言葉そのものが信用できなくなった世界の中で、沈黙する者だけが真実に近づくという逆説が描かれた。

興味深いのは、これらの作品がいずれも「聞こえないこと」そのものを描いているわけではないことだ。
そこにあるのは、恋人同士、親子、家族、社会、あるいは国家や組織に至るまで、人と人とのあいだに横たわる越えがたい距離である。

私たちは日々膨大な言葉を交わしている。SNSでは絶えず誰かが何かを発信し、スマートフォンには無数のメッセージが届く。しかし、言葉が増えれば増えるほど、本当に理解し合えているという実感はむしろ希薄になっていく。
だからこそ現代の映画やドラマは、聾唖というモチーフに繰り返し惹かれるのではないだろうか。
それは障害を描くためではない。
言葉だけでは届かないもの、言葉があっても埋められない距離、そしてそれでもなお他者とつながろうとする人間の営みを描くためである。

現代作品における聾唖とは、もはや特定の身体的条件を指すものではない。それは、誰もが他者とのあいだに抱えている「分かり合えなさ」の表象であり、同時に、その不可能性を引き受けながらなお対話を続けようとする現代人の存在様式そのものなのである。


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聾唖をモチーフとする作品

毒戦 BELIEVER
リョ・ジョンヨルが主人公を連れていく麻薬精製工場の天才的な技術者を演じるのがキム・ドンヨンとイ・ジュヨンの聾唖兄妹コンビ。これがすごく良い。
星降る夜に
「星降る夜に」の感想と評価・独自の考察を交え、キャストや配信情報を徹底レビュー。
Silent
キスも抱擁もなしで(手をつなぐのにワンシーズンかかっている)恋愛ドラマを作ったのは、あっぱれである。
しずかちゃんとパパ
吉岡里穂の演技にはもともと癖があり、本作では父親と暮らすコーダの微妙な演技に挑戦しているが、吉岡本人と重なるところがあって目を離せない。
ファイトソング
「モネ」といい、本作といい、初期の清原果耶は、周囲のフォローであきらめかけている何かに再起する役、言うなれば甘えかされている役を演じることが多かった、と今にして思う。それは美少女ぶりと無縁でないはずだ。
君の手がささやいている
ハタチの菅野美穂がなんとも美しく、記念碑になるドラマとおぼしい。
愛していると言ってくれ
90年代恋愛ドラマのカップルの中でも、この二人の“沈黙の愛”は圧倒的に異色で美しい。
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