今回取り上げるのは、「共犯する女たち」である。
共犯と聞くと、多くの人は犯罪を思い浮かべるだろう。しかしドラマや映画に登場する女たちは、必ずしも最初から犯罪者ではない。
誰かの秘密を知ってしまう。
誰かの嘘を共有してしまう。
あるいは「あなたしかいない」と頼られてしまう。
その瞬間から、女たちは少しずつ引き返せない場所へ足を踏み入れていく。
単独で罪へ向かうのではない。そこには必ず、もう一人の女(理解者、協力者、親友、あるいは敵だったはずの女)がいる。
彼女たちは互いの痛みや秘密を共有しながら結び付き、その関係は時として友情を超え、運命共同体へと変わっていく。
本稿で取り上げる作品群において、女同士の連帯(シスターフッド)は、決して美しいだけのものではない。
救いになるはずの絆は、いつしか依存となり、秘密の共有となり、共犯関係へ変わっていく。
それは友情なのか、連帯なのか、それとも共犯なのか。
「共犯」と「シスターフッド」という二つの視点から、女たちがなぜ手を取り合い、なぜ引き返せなくなってしまうのかを考えてみたい。
共犯とは「罪」ではなく「共有」である
ここでの「共犯関係」は、ただの「犯罪に加担した人間」ではない。
人は、悪意だけで共犯になるわけではない。誰にも言えない秘密を打ち明けたり、苦しみを共有したり、相手の孤独を理解したりする行為は、本来、人と人を結びつけるためのものだ。ところが、その結び付きが強くなりすぎたとき、人は相手のために嘘をつき、真実を隠し、時には間違った選択を共に背負うようになる。
つまり共犯の本質とは、罪の共有ではなく、運命の共有である。
本稿で取り上げる女性たちは、最初から犯罪者だったわけではない。
孤独だった。理解者を求めていた。あるいは誰かを守ろうとしていた。そして、その過程で秘密を共有し、人生を共有し、いつしか後戻りのできない関係へと踏み込んだ。
だから彼女たちは単なる加害者ではなく、誰かと生きようとした結果として共犯者になってしまった女たちなのである。
シスターフッドはなぜ共犯へ変わるのか
近年のドラマでは、女同士の連帯(シスターフッド)がしばしば重要なテーマになっている。
かつてドラマでは、恋愛を巡って争う女たちが描かれていたが、現在は社会の変化を反映して、傷ついた女性たちが支え合い、情報を共有し、互いを助ける物語が増えている。
ただし、本稿で扱う作品群は、その連帯を単純な美談としては描かない。
なぜなら連帯には光と影があるからだ。誰かを理解することは、その人の秘密を知ることでもある。誰かを守ろうとすることは、その人の罪を背負うことにもなり得る。
「私だけは味方でいたい」「この人を見捨てたくない」というその気持ちは尊いが、時として、その思いは正しさよりも強い力を持つ。
だからシスターフッドは救済になるが、同時に共犯関係にもなりえるのである。
本稿で描かれるのは、そんな危うい連帯の物語だ。
女たちはなぜ共犯になるのか。
その答えは、憎しみや欲望の中にあるとは限らない。
むしろ、愛情や共感の中にこそ潜んでいるのである。
【復讐が生んだシスターフッド】
サレタ側の復讐〜同盟を結んだ妻たち〜

サレタ側の復讐〜同盟を結んだ妻たち〜(2026)
ここで描かれる連帯は友情から始まるものではなく、裏切られた経験から始まる。
主人公は三人の女性たちだ。
スーパーでパートとして働く岸本奈津子(水崎綾女)、製薬会社で営業職として働く遠藤佳乃(篠田麻里子)、そして専業主婦の早乙女麗奈(矢吹奈子)。
年齢も職業も生活環境も違う三人は、本来なら交わることのない女たちだが、「夫に裏切られている」という共通点がある。
奈津子の夫・義隆には関根まどか(矢野ななか)が、佳乃の夫・将生には小松原乙葉(小西桜子)が、麗奈の夫・樹には南条愛(青島心)がいる。それぞれ異なる不倫関係、異なる家庭、異なる苦しみだ。
ところが彼女たちは、自分たちの置かれた状況が驚くほど似ていることに気づき、互いの体験を共有する。
不倫そのものよりも辛いのは、自分の感覚を否定されることだ。「考えすぎじゃない?」「証拠はあるの?」「家庭を壊したくないなら我慢しなさい」などの言葉によって、サレ妻たちは孤立させられる。だから自分と同じ境遇の女と出会うことで救われる。「私だけじゃなかった」という感覚が三人を結びつける。
ここに本作のシスターフッドがある。
本作は、不倫相手の女を攻撃する物語ではない。もちろん怒りも、嫉妬もあるが、物語が進むにつれ、彼女たちは「問題の本質は不倫相手ではなく、嘘をつき続けた夫たちにある」という結論にいたる。
タイトルの「同盟」という言葉が示す通り、彼女たちは親友でも家族でもなく、共通の痛みを知る者同士として手を組む。友情というより戦友に近い関係である。
恋愛を巡って女性同士が争うのではなく、女性同士が情報を共有し、知恵を共有し、互いを支える姿を描く本作のシスターフッドは、非常に現代的と言える。
もっとも、彼女たちの連帯は完全に無垢ではない。復讐という目的によって結びついている以上、そこには秘密もある。嘘もある。計画もある。
つまり彼女たちはシスターフッドを築くと同時に、小さな共犯関係も築いているのである。
『サレタ側の復讐〜同盟を結んだ妻たち〜』は、「女同士は争うもの」という古い物語を反転させたドラマだ。
「共犯する女たち」というテーマにおいては、最も希望に満ちたシスターフッドを描いていると言えるだろう。
【自由になるために消える女たち】
彼女たちの犯罪

彼女たちの犯罪(2025)
神野由香里(前田敦子)、熊沢理子(石井杏奈)、日村繭美(深川麻衣)は年齢も境遇もまったく異なるが、それぞれ自分の人生に行き詰まりを感じている。
由香里は既婚者との関係に未来を見出せない。
理子には残された時間が少ない。
繭美は夫から精神的に支配され、自分の人生を生きられなくなっている。
誰もが「このままでは生きられない」と感じている。
彼女たちを結びつけたのは、それぞれが「今の人生を終わらせたい」と願っていることだ。
繭美は夫から逃げたい。
由香里は叶わない未来に区切りを付けたい。
理子は残された人生に意味を見出したい。
方向は違っても、三人とも現状の延長線上に希望を見いだせなくなっている。
そこで生まれるのが、繭美の失踪計画である。
この計画は金銭目的でも復讐目的でもない。繭美は夫を陥れたいわけではなく、誰かを傷付けたいわけでもなく、ただ今の人生から消えたいのである。犯罪計画というより、人生のリセット計画に近い。
だからこそ由香里も理子も協力してしまう。犯罪に加担しているという意識よりも、「この人を自由にしてあげたい」という気持ちの方が強いからだ。
ここに本作のシスターフッドがある。
三人は親友ではなく、長い付き合いがあるわけでもないが、互いの苦しみだけは理解できる。だから協力する。秘密を共有する。そして引き返せなくなる。本来なら他人の人生を背負う必要などないのに、彼女たちは関わってしまう。
なぜなら、自分自身もまた同じように行き場を失っているからだ。
最初は繭美のためだった。しかし計画が進むにつれ、失敗も成功も三人全員の問題になっていく。
誰か一人が抜ければ成立しない、真実を話せば終わる。秘密は共有され、責任も共有される。
その瞬間、彼女たちは単なる協力者ではなく共犯者になる。
だが本作は、彼女たちを悪人として描かない。
観る者は、もし自分だったらどうしただろうか、苦しみ続ける人を見捨てられただろうか、逃げ場を失った人に「それは間違っている」と言えただろうかと考えるだろう。
その問いは、最後まで保留される。
誰かを救いたいという気持ちは善意だが、善意だけでは現実は変わらない。だから彼女たちは危険な方法を選ぶ。そして、その選択がさらに新たな問題を生み出していく。
本作が描いているのは、犯罪のスリルではなく、人はどこまで他人の人生を背負えるのかという問いである。
そして、その問いの先にあるのがシスターフッドだ。
女たちは互いを理解し、支え合い、救おうとする。だが、その連帯は必ずしも幸福な結末を保証しない。時には秘密を生み、嘘を生み、共犯関係を生み出す。
『彼女たちの犯罪』は、その危うさを鮮やかに描いたドラマである。
彼女たちが求めていたのは犯罪ではない。自由だった。しかし自由を求めた結果として、三人は同じ秘密を背負うことになる。
本作は、「共犯する女たち」というテーマの原型とも言える物語なのである。
【女はなぜ“魔女”と契約するのか】
告白の代価

告白の代価(2025)
夫殺しの容疑をかけられ拘置所に送られたアン・ユンス(チョン・ドヨン)は、そこで“魔女”と呼ばれる女、モ・ウン(キム・ゴウン)と出会う。
モ・ウンは不気味な存在であり、拘置所の中にいながら異様な影響力を持ち、他の囚人たちからも恐れられている。
彼女はユンスに「私が夫殺しを告白してあげる。その代わり、一人殺して」と持ちかける。
普通なら成立するはずのない会話だが、ユンスには断れない理由がある。娘のもとへ帰りたい、無実を証明したい、そして人生を取り戻したいからだ。
つまり本作のシスターフッドは共感からではなく、契約から始まる。
ユンスはモ・ウンを恐れている。利用されていることも理解している。それでも次第に彼女から離れられなくなる。
なぜか。
モ・ウンだけが、自分の絶望を理解しているように見えるからである。
拘置所の面会室。ガラス越しに向き合う二人。本作ではこの場面が繰り返される。物理的には隔てられているが、精神的には誰より近い。夫も弁護士も検事も理解してくれない。だが“魔女”だけは理解してくれる。
その奇妙な親密さが少しずつ生まれていく。
モ・ウンは典型的な悪の黒幕として描かれていない。彼女はユンスを操る。追い詰める。監視する。それでもどこかで彼女を守ろうとしているようにも見える。支配と保護が同居しているのである。だから二人の関係は単純な加害者と被害者にならない。
依存であり、共犯であり、疑似的なシスターフッドでもある。
本作の終盤がシスターフッドの物語へ着地していくのも興味深い。
最初は「代価」として始まった関係が、いつしか互いの人生を背負う関係へ変わっていくからだ。
つまり『告白の代価』が描いているのは、「女たちはなぜ理解者を求めるのか」ではなく、「女たちはなぜ危険な理解者に惹かれてしまうのか」という物語なのである。
モ・ウンは友人でも仲間でもなく、むしろ人生を破壊しかねない存在だが、それでもユンスは彼女から離れられない。なぜなら極限状態に置かれた人間にとって、理解とは善意より強いからである。
『告白の代価』は、女性同士の連帯を温かな救済としてではなく、危険な契約として描いた作品である。
そしてその歪んだ関係こそが、本作を単なる韓国ノワールではなく、「共犯する女たち」の物語にしているのである。
【母親は演じられるのか】
フェイクマミー

フェイクマミー(2026)
だが本当に偽装されているのは身分ではない。母親そのものだ。
物語は、シングルマザーでありながら経営者としても成功している日高茉海恵(川栄李奈)が、娘・いろは(池村碧彩)のお受験のため、花村薫(波瑠)に“母親代行”を依頼するところから始まる。
「お受験の日、私の代わりにママとして面接を受けてほしい」という提案は常識的に考えれば無茶であり、当然、薫も最初は拒絶する。
しかし面白いことに、その無茶な契約は少しずつ現実味を帯びていく。
茉海恵は単なる身勝手な依頼人ではない。娘を深く愛している。しかし経営者としての責任も背負っている。薫は、学校や保護者社会が求める「理想の母親」を自然に演じることができる。だから二人は互いに足りないものを補い合う。
ここで共有されるのは秘密ではなく、「母親」という役割である。
しかし、薫がいろはの母親役を演じるだけでは済まなくなっていく。
最初は面接対策だったものが、入学後も、保護者会、学校行事、ママ友との付き合いなど、母親として振る舞い続けなければならなくなる。嘘を重ねながら、薫は母親という役割を演じ続けるが、不思議なことに、その演技は次第に演技ではなくなっていく。いろはと接する時間が増えるにつれ、薫は本当に彼女を気に掛けるようになる。一方で茉海恵もまた、薫を単なる代行者として扱えなくなっていく。
ここで生まれるのは奇妙なシスターフッドである。
二人は同じ子どもを守ろうとしている。しかし一人は本物の母親であり、もう一人は偽物の母親だ。本来なら両立しない関係だが、二人は対立するのではなく、協力しながら一つの役割を共有していく。そこに本作の面白さがある。
本作の女性たちを結び付けているのは、秘密そのものではない。「母親とは何か」という問いである。
血縁だけが母親なのか。同じ時間を過ごした者だけが母親なのか。あるいは、子どもを守ろうとする意志こそが母親なのか。
薫がいろはのために奔走する姿を見ていると、その境界は次第に曖昧になっていく。その曖昧さこそが、本作における“フェイク”の本質でもある。
二人は同じ嘘を共有している。学校に知られてはいけない。周囲に知られてはいけない。だから二人は常に同じ秘密を守り続ける。その意味では共犯者でもある。しかし本作が描いているのは、犯罪的な共犯関係というよりも、社会が求める「理想の母親像」を二人で引き受ける関係だ。
『サレタ側の復讐』の女性たちは怒りによって結び付いた。
『彼女たちの犯罪』の女性たちは欠落を補い合った。
しかし『フェイクマミー』の女性たちは、一つの役割を共同で担うことで結び付いている。だから本作のシスターフッドは少し特殊である。孤独を埋めるための連帯ではない。「母親」という社会的役割を共同で引き受けるための連帯なのである。
ここで描かれているのは、母親の真贋ではなく、本物の母親と偽物の母親、その境界がどこにあるのかという問いである。
その問いに一人ではなく二人の女性が向き合っているのである。
【親友を救うために、人はどこまで罪を背負えるのか】
あなたが殺した

あなたが殺した(2025)
物語の出発点は「復讐」でも「欲望」でもなく、「親友を助けたい」という思いだ。
百貨店で働くウンス(チョン・ソニ)は、幼い頃から父親のDVを見て育った。母が殴られる姿を見続けてきた彼女にとって、暴力を振るう男は許しがたい存在である。
そんなウンスが再会した親友ヒス(イ・ユミは、夫ジンピョ(チャン・スンジョ)から日常的なDVを受けていた。顔のあざ、怯えた表情、助けを求めることすら諦めたような姿。ウンスはそこに、かつての母親を見てしまう。そして彼女は、「あなたの夫を殺そう」という常識を超えた提案をする。
本作で重要なのは、この言葉が憎しみから生まれたものではないことだ。ウンスはジンピョを恨んでいるが、しかしそれ以上に、ヒスを救いたいと思っているので、殺人計画は犯罪であると同時に、救済計画でもあるのだ。
ここに本作独特のシスターフッドがある。
『サレタ側の復讐』では女性たちは共通の敵によって結び付いた。しかし本作では、ウンスは自分自身のためではなくヒスのために罪へ踏み込む。つまり連帯の出発点が自己利益ではなく献身なのだ。
だからこそ物語は苦しくなる。
計画は思い通りに進まない。
想定外の出来事が次々と起きる。
死体は思ったように消えてくれない。
周囲の人間は疑い始める。
そして二人は何度も引き返す機会を失い、その過程でますます離れられなくなる。
秘密を、恐怖を、罪悪感を共有すること。共犯関係とは、基本的に人間関係を壊す装置だが、本作では逆に、それが二人を強く結びつけていく。
二人がしていることは間違っているのか。他に方法はなかったのか。
本作が描いているのは、女性同士の連帯の美しさではなく、連帯が人をどこまで危険な場所へ連れて行くのかということなのだ。親友を救いたいという気持ちは尊いが、その思いが強すぎたとき、人は法よりも友情を優先する。
本作は、その危うさを真正面から描いている。
だから、「シスターフッドが共犯へ変わる瞬間」を最も鮮烈に描いていると言えるのである。
【推しは友情を超えるのか】
推しの殺人

推しの殺人(2026)
そこで問われているのは、「人は仲間を守るためにどこまで真実を曲げられるか」ということである。
物語は、地下アイドルグループ「ベイビー★スターライト」の元メンバー・愛が刺殺されるところから始まる。
そして、その場にいたルイ(田辺桃子)が容疑者として逮捕される。
警察から見れば分かりやすい事件だ。現場にいた、動機も疑われる、証拠もある。
だが、テルマ(横田真悠)とイズミ(林芽亜里)は納得しない。
ルイがそんなことをするはずがないという思いだけを頼りに、二人は独自に真相を追い始める。
ここから、本作は通常のミステリーとは違う方向へ進み始める。
彼女たちが探しているのは真犯人だけではない。「なぜルイは犯人ではないと言い切れるのか」という、自分たち自身の確信の根拠でもある。
だから捜査は事件解決のためだけではなく、仲間への信頼を証明するための行為でもあるのだ。
三人の関係は決して理想的なものとは言えない。
地下アイドルグループには常に競争があり、人気の差があり、センター争いがある。ファンの数も比較される。同じステージに立ちながら、同じ夢を追いながら、彼女たちは常に順位付けされ続ける。ルイ、テルマ、イズミも例外ではなく、仲間であると同時にライバルでもある。だから本来なら、事件をきっかけに関係が壊れてもおかしくない。
しかし実際には逆だった。
愛の死とルイの逮捕によって、三人の結び付きはむしろ強くなっていく。それは友情というより、「ベイビー★スターライト」という共同体を守ろうとする意識に近い。
ルイを失えばグループは終わる。愛の死の真相が暴かれれば、自分たちの居場所も失われるかもしれないから、彼女たちは真相を追う。
仲間のために、グループのために、そして自分たちが信じてきた時間のために。
『彼女たちの犯罪』の女性たちは互いの欠落を埋め合った。『あなたが殺した』の女性たちは親友を救おうとした。しかし本作の女性たちは、自分たちが属している世界そのものを守ろうとしている。
だからこの物語で問われているのは、「犯人は誰か」だけではない。
もしルイが犯人だったらどうするのか。もし真実が自分たちの信頼を裏切ったらどうするのか。
その問いが、物語の最後まで消えることはない。
タイトルに含まれる「推し」とは、本来、アイドルを応援する側の言葉である。だが本作では、メンバー同士もまた互いを“推している”。信じたい、応援したい、味方でいたい。だから彼女たちは真実より先に仲間を選ぶ。
『推しの殺人』は、地下アイドルという競争の激しい世界を舞台にしながら、「女たちはなぜ仲間を守るために共犯者になってしまうのか」というテーマを描いたドラマなのである。
【成功は女たちの連帯を壊すのか】
共犯者

共犯者(2006)
これは松本清張の原作(1957)をドラマ化したものだが、ここで描かれているのは女同士の連帯の始まりではなく、その終わりである。
これまで紹介したドラマでは、女たちは孤独の中で出会い、秘密を共有し、共犯者になっていったが、本作では、その過程はすでに終わっている。
内堀江梨子(賀来千香子)と町田夏海(とよた真帆)は、8年前に1億円強奪という重大な犯罪を共に犯した、文字通りの共犯者である。そしてその金が、現在の江梨子の成功の土台になっている(高級化粧品会社「ローゼ・ジャポネ」の女性社長という業界のカリスマ、華やかな成功者)。
だが、その成功の根元には、誰にも知られてはならない秘密が埋まっている。
本作の物語は、犯罪そのものではなく、その後から始まっている。8年前なら、二人は運命共同体だった。同じ罪を背負い、同じ秘密を抱え、生き延びるために協力し合っていた。ところが現在の二人は違う。江梨子は成功者になり、夏海はその外側にいる。同じ秘密を共有しているはずなのに、同じ人生を歩んではいない。
そこに決定的な亀裂が生まれる。
週刊誌に掲載されたたった一枚の写真が、江梨子を激しく動揺させる。彼女が恐れているのはスキャンダルではなく、過去である。成功によって覆い隠してきた自分自身の正体である。そして、その過去を知る存在が、夏海なのだ。
ここで江梨子は夏海を探し始める。
だが、その行動には奇妙な矛盾がある。
会いたくない、しかし会わなければならない。忘れたい、しかし忘れられない。それは夏海が単なる旧友ではないからだ。彼女は江梨子の成功の証人であり、同時に犯罪の証人でもある。
つまり夏海の存在そのものが、江梨子の人生の弱点なのである。
本作のシスターフッドは極めて歪んでいる。
二人はかつて強く結ばれていた。しかし現在、その連帯は信頼ではなく不信によって維持されている。相手は何を知っているのか、何を話そうとしているのか、自分を裏切るのではないか、そんな疑念ばかりが膨らんでいく。それでも二人は切り離せない。秘密を共有しているからだ。
共犯する女たちは、しばしば連帯によって救われるが、『共犯者』においては逆である。
連帯があったからこそ逃げられない。秘密を共有したからこそ自由になれない。過去に共犯者だったからこそ、現在も互いの人生を縛り続ける。
ここにはシスターフッドの暗黒面がある。
女同士の絆は美しいが、その絆が罪によって結ばれていた場合、何十年経っても消えることはない。『共犯者』は、「共犯する女たち」というテーマを最も冷徹な形で描いたドラマである。
連帯の物語ではなく、連帯の残骸の物語なのだ。
【友達を守っただけなのに】
インフルエンス

インフルエンス(2021)
友梨(橋本環奈)、真帆(葵わかな)、そして里子(吉川愛)は、最初から犯罪者ではない。
それぞれ異なる環境で育った少女たちは出会い、特別な関係を築いていく。社会に反抗したいわけでもないし、誰かを傷つけたいわけでもない。ただ、ほかの誰にも分からない感覚を共有できる相手が欲しかった。だから三人は強く結び付く。
家庭にも学校にも居場所がない少女たちが、初めて「仲間」を見つけた時間は幸福だった。しかし、それだけに、その後に起きる出来事が重い。ある事件が起きる。誰かを守るために嘘をつく。真実を隠す。そして、その嘘が次の嘘を呼ぶ。
本作の恐ろしさはここにある。
『あなたが殺した』では、主人公たちは明確に犯罪を決意した。『共犯者』では、二人は明確に金を盗んだ。
『インフルエンス』の少女たちは、その場その場で目の前の状況を何とかしようとしただけである。
ところが、その判断が次の判断を呼ぶ。一つの隠蔽が次の隠蔽を呼び、一つの秘密が次の秘密を呼び、いつしか人生全体がその出来事に支配されるようになるのである。
物語は、大人になった友梨(大塚寧々)のインタビューに、小説家鈴木保奈美が応じる形で進む。
つまり彼女は今も過去から逃れられていない。少女時代の出来事は終わっていないのである。何年経っても、何人死んでも、人生が変わっても、あの日の選択だけが消えない。
ここに本作独特のシスターフッドがある。
彼女たちは最後まで互いとの関係を断ち切れない。だから破滅する。普通なら途中で離れればいい。真実を話せばいい。過去を捨てればいい。しかし彼女たちはそれができない。共有した時間があまりにも大きいからだ。
他のドラマでは、女同士の連帯は救済として描かれていたが、本作はその逆を描いている。人とのつながりは支えになる。しかし同時に、人を縛るものにもなる。過去を共有した相手がいるからこそ、人は簡単に前へ進めない。
だから本作の共犯関係は悪意から生まれるのではなく、人との結び付きから生まれるのである。
そして、その結び付きが強いほど、そこから抜け出すことは難しくなる。
だから、本作は「共犯する女たち」というテーマの終着点とも言えるドラマである。
この物語は、「女たちはなぜ共犯になるのか」という問いに対して、最も残酷な答えを示している。
友達だったから。ただ、それだけなのである。
なぜドラマは「共犯する女たち」を描くのか
ここまで見てきた作品には、興味深い共通点がある。それは、物語の中心に男がいないことだ。
もちろん男たちは登場する。浮気する夫、暴力を振るう夫、女たちを利用する男。しかし、本稿で取り上げた作品の本当の主役は、そうした男たちではない。
女と女の関係そのものである。
かつてドラマにおける女性同士の関係は、恋愛の副産物として描かれることが多かった。同じ男を好きになる、恋のライバルになる、嫉妬する、対立する。女同士の関係は、しばしば男を中心に動いていた。ところが近年のドラマでは、女性同士の関係そのものが物語になる。友情、連帯、依存、そして時には共犯関係。
本稿で見てきた女たちは、決して理想的な仲間ではなかった。
互いを利用することも、疑うことも、嫉妬することも、嘘をつくこともあるが、それでも彼女たちは結びつく。
なぜなら彼女たちが向き合っているのは、男ではなく、自分自身の人生だからだ。
結婚、出産、仕事、老い、家族、孤独。現代のドラマは、そうした問題を恋愛だけでは描き切れなくなった。だから女たちは男を奪い合う存在ではなく、共に人生を背負う共犯者という存在として描かれるようになったのではないか。
もちろん、その連帯は美しいだけではない。これまで見てきたように、そこには秘密も、依存も、支配も、そして時には犯罪さえある。だから「共犯する女たち」の物語は、単純なシスターフッド礼賛ではない。むしろ現代の人間関係の複雑さを映し出している。
誰かを理解したい。誰かに理解されたい。その願いは人を救う。
しかし同時に、人を縛りもする。
本稿で見てきた女たちは、その両方を体現していた。
だから私たちは彼女たちに惹かれるのだろう。
彼女たちは特別な犯罪者ではない。私たちと同じように誰かとつながりたいと願い、その結果として引き返せなくなった人々なのである。
その危うさこそが、現代ドラマが描き続けているシスターフッドの本質なのかもしれない。


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