まず「独身者の生活」を想像してもらいたい。
一人で食事をし、好きな音楽を聴き、自分の決めた順序で一日を終える。その暮らしに不満がなくても、結婚していないということを知られた途端、「なぜ?」と聞かれることがある。相手がいないのか。理想が高いのか。一人で寂しくないのか。理由を探す問いの中で、独身者は何かが欠如した存在として語られはじめる。
たとえば『結婚できない男』と『私 結婚できないんじゃなくて、しないんです』。二つのドラマタイトルの間には、独身をめぐる評価と、それを押し返す言葉がある。けれど、「一人で十分に幸せだ」と言いきらなければ自分の暮らしを認めてもらえないとしたら、それはひどく窮屈なことだ。誰かに会いたい夜があることと、結婚を望むことは、必ずしも同じではないはずである。
フランス文学者で詩人の松浦寿輝は、『口唇論』(1985年、青土社)で、独身者を欠如として捉える見方から出発し、自立した個人や自由な変人という肯定的な人物像を問い直した。松浦のディスクールを手がかりにすると、今、ドラマの中の独身者を見る私たちの目も気になってくる。
偏屈さを笑い、強がりを見抜いたつもりになり、恋の訪れに安堵するとき、私たちは独身者たちにどのような結末を求めているのか。
『大豆田とわ子と三人の元夫』『ひとりでしにたい』といったドラマもたどりながら、独身者の「居場所」について考えてみたい。
結婚へ向かう途上でも、一人で生きる覚悟を証明する舞台でもないところに、彼らの居場所を見いだすことはできるだろうか。
結婚できない男(2006)・まだ結婚できない男(2019)/私 結婚できないんじゃなくて、しないんです(2016)/大豆田とわ子と三人の元夫(2021)/ひとりでしにたい(2025)
結婚できない男:一人の暮らしは、誰のために変わるのか

結婚できない男(2006)


『結婚できない男』(2006)の桑野信介(阿部寛)は、一人の時間を持て余したりしない。自宅でステーキを焼き、クラシック音楽に耳を傾ける。食事にも住まいにも自分なりの好みがあり、その楽しみ方を誰かに教えてもらう必要などない。彼の部屋には、配偶者がいないために空いた席というより、一人で暮らすために整えられた秩序がある。
ただ、その秩序を他人と共有するのは難しい。建築家としての能力はあっても、相手の気持ちをくみ取る言葉はなかなか出てこない。正しいことを言っているつもりで人を怒らせ、親切心があっても余計な一言で台無しにする。私たちはその不器用さを笑いながら、タイトルの意味を理解した気になる。こういう男だから、結婚できないのだ、と。
こうして、彼の生活の充実と、人づきあいの難しさは、いつの間にかひとまとめにされる。一人で音楽を楽しむことまで、他人と暮らせない性格の表れであるかのように見えてくる。しかしよく考えれば、自分の好きなように過ごす時間を持つことと、相手を傷つける言い方をすることは、別の問題だ。桑野に改めるべき振る舞いはあるとしても、そのために一人の暮らし全体を改めなければならないわけではない。
松浦寿輝は『口唇論』で、独身者が「自由な変人」として社会に容認される仕組みに目を向けている。共同体の秩序から多少はみ出していても、周囲がそれを面白がっているかぎり、変人には変人の席が用意される。桑野を眺める私たちにも、その楽しみはある。彼にはもっと素直になってほしい。けれど、誰とでも円滑につきあえる人になってしまったら、つまらない。幸せを願う気持ちと、いつまでも面倒な男でいてほしいという期待が、同時に働いているのだ。
桑野と他者との関係が、その期待を越えそうになることもある。医師の早坂夏美(夏川結衣)とは、言い争いを重ねるうちに、互いの言葉を気にするようになる。隣人の犬・ケンに向ける関心には、人間相手の会話では見えにくい彼の姿も表れる。一人で完結しているように見えた生活に、気になる相手が生まれるのだ。
だからといって、そこから「桑野も本当は寂しかった」と結論づけるのは早い。他者を気にかけるようになったことで、独身者としての時間が色褪せるわけではない。夏美との関係で問われるのも、彼女が桑野の生活の空席を埋めてくれるかどうかではなく、自分の思いどおりにならない相手に、彼がどう言葉を差し出すかということだろう。
その関係の先を知ろうとすると、続編『まだ結婚できない男』(2019)の「まだ」が引っかかる。13年を経ても独身のままの桑野は、同じ課題を解決できずにいる人のように登場する。夏美と心を通わせた経験も、その後に重ねた生活も、結婚したかどうかという結果から見れば「まだ」の一語に収められてしまうのだ。
私たちは桑野に、誰かと出会ってほしいのだろうか。それとも、結婚してほしいのだろうか。
出会いによって変わることを願いながら、その変化を結婚という形で確かめようとするとき、彼が生きている現在を、いつまでも「結末」の手前に置いてしまうのはなぜか。
桑野の「居場所」を考えるには、まず、彼の暮らしを見届ける側の期待から疑う必要がある。
私 結婚できないんじゃなくて、しないんです:「しない」は、誰に向けた言葉?

私 結婚できないんじゃなくて、しないんです(2016)

『結婚できない男』というタイトルが周囲からの評価だったとすれば、『私 結婚できないんじゃなくて、しないんです』(2016)は、それに対する本人からの反論のようにも見える。「できない」と「しない」の間にあるのは、能力と意思の違いだ。相手に選ばれなかったのではなく、自分が選んだということ。そこには、独身というだけで不本意な評価を受けることへの抵抗がある。
主人公の橘みやび(中谷美紀)は、美容皮膚科のクリニックを経営する医師だ。仕事も収入もあるが、恋愛や結婚の話になると、別の物差しで評価される。自信は隙のなさに、判断力は理想の高さに、仕事での頼もしさは異性にとっての近寄りがたさに読み替えられるのだ。
容赦のない言葉でそう評価するのは、割烹料理店の店主・十倉誠司(藤木直人)である。本作はみやびが彼の指南を受けながら、恋愛に向き合っていくというドラマで、仕事や生活を自分で築いた彼女が、指導を受ける側に置かれる落差が見どころになっている。
だが、この構成では、誰かを好きになることと、結婚できる女性になることが、いつの間にか重ねられている。恋愛に向き合うはずが、相手に好かれるために自分を修正する課題になっていくのだ。
もちろん、相手の話を聞いたり、自分の思い込みを疑ったりすることは、人と関係を築くうえで必要だ。しかし、みやびの言葉や振る舞いを「それでは結婚できない」と十倉が採点するとき、問われているのは、その相手とどんな関係を築きたいかよりも、結婚相手として選ばれる振る舞いができるかになっている。
私たちもまた「結婚しない」と言うみやびの言葉をそのまま受け取らず、自信が崩れる瞬間や、強気な言葉の奥にある不安を探している。そして恋愛に戸惑う姿を期待し、「本当は結婚したいのだ」と納得したいのだ。
松浦が『口唇論』で問い直した「自立した個人としての独身者」という像は、ここで別の角度から響いてくる。
「結婚できない」という評価に対して、自分は望めば結婚できるし、一人でも充実していると証明し続けること。そこにはある種の切実さがあるけれど、証明を続けるかぎり、暮らしを評価する基準は結婚の側に置かれたままだ。
「しない」と言うのにも、「できる」という資格を示さなければならないのは、なぜなのか。
さらに、みやび自身の気持ちも、一つの宣言には収まらない。好きな人がいれば、その人に好かれたい。うまくいかなければ傷つくし、相手の言葉に期待もする。その揺れは、「しない」が嘘だったことの証拠になるだろうか。誰かと親しくなりたい気持ちを持ちながら、結婚については迷っていてもいいはずだ。
以前とは違う暮らしを望むようになったとしても、それまでの人生を強がりとして取り消す必要はないはずである。
桑野が周囲から「結婚できない男」という席を与えられるのに対し、みやびは「結婚しない女」という席を自分で確保しようとする。しかし、その席を守るために、欲望や迷いまで抑えなければならないとしたら、そこもまた居心地のいい場所とは言い難い。
「しない」と言い切れない日にも、「したい」と答えられないときにも、その人の生活は続いている。
私たちは、みやびの「居場所」を、宣言の正しさが証明される場所よりも、宣言からはみ出す気持ちを、言い訳や敗北として扱われずにいられるところに探したいと思う。
大豆田とわ子と三人の元夫:別れた関係は、どこへ行くのか

大豆田とわ子と三人の元夫(2021)

『大豆田とわ子と三人の元夫』(2021)の主人公・大豆田とわ子(松たか子)は、三度結婚し、三度離婚している。娘の唄(豊嶋花)と暮らし、建設会社の社長として働く彼女のもとには、三人の元夫(松田龍平・角田晃広・岡田将生)が何かと顔を出す。結婚は終わっているのに、関係は終わっていない。タイトルに並んだ「とわ子」と「三人の元夫」は、それだけでも、「独身者は一人」という思い込みを少し狂わせる。
ただ、とわ子には元夫たちがいるから寂しくないと説明してしまうと、この関係の面白さを取り逃がすことになる。彼らは彼女の暮らしを支えるために配置された便利な人々ではない。未練も自尊心もあり、余計なことも言う。とわ子にとって、来てほしいときに来てくれるとは限らず、放っておいてほしいときにもやって来る。関係が残ることには、煩わしさも含まれているのだ。
「元夫」という呼び名も、その距離を十分に説明するものではない。かつて夫だったことは分かるが、今どこまで相手に踏み込んでよいのか、何を頼んでよいのかは決まっていない。家族だったからこそ知っていることもあれば、家族ではなくなったから話せることもある。別れた後の関係は、結婚していたころの残滓として、そのまま保存されているわけではない。会話を交わすたびに、現在の距離がつくり直されていく。
その意味で、元夫たちとの再婚を結末として待つ必要もないだろう。再び夫婦にならなくても、彼らの間で起きていることには、その都度の意味がある。婚姻関係へ戻る可能性だけを見ていると、そこへ向かわずに続いている時間が見えなくなってしまう。
とわ子の生活には、元夫という名前では捉えられない関係もある。幼なじみの綿来かごめ(市川実日子)との間には、互いの事情をすべて説明しなくても一緒にいられる親しさがある。しかし長く知っているからといって、相手の人生を知り尽くせるわけではない。かごめには、とわ子が立ち入れない時間があり、とわ子には決められない生き方がある。
そしてドラマ中盤で、とわ子は彼女の突然の死を引き受けることになる。
ここでは人間関係を「持っている」という言い方の心もとなさが表れる。親しい友人がいることは、孤独への備えを一つ確保したことにはならない。その人は自分を安心させるために生きているのではないし、いつまでもそばにいてくれるとも限らない。かごめを失った悲しみは、ほかに親しい人がいることで帳消しにはならない。
松浦寿輝は「独身者たちは連帯しない、連結するのだ」と『口唇論』に書いた。
この言葉をそのままとわ子と元夫たちに当てはめることはできない。彼らには夫婦として共有した過去がある。それでもそれを手がかりにすると、関係を一つの集団や目的にまとめてしまわずに見ることができる。
三人の元夫、娘、かごめ。それぞれとの関係は、とわ子を中心とする一つの家族へと、きれいに収まるわけではない。そこで交わされる親しさも、衝突も、喪失も、とわ子一人の意思では整えられない。彼女の生活は、そうした他者の都合や思いに触れながら動いているのだ。
独身者の「居場所」を考えるとき、私たちはつい、その人を受け入れてくれる集団や、帰りを待つ誰かを探してしまいがちだ。とわ子の暮らしにも、そうした安心を見いだすことはできるが、このドラマで目を向けたいのは、安心を保証しない相手とも、関係が続いているということなのだ。
別れたから他人に戻るとも、親しいから家族になるとも言いきれない。とわ子は、その中間にある関係を、一つの名前に決着させずに生きている。彼女の「居場所」は、誰かとの関係が完成することで得られるものというより、名前の定まらない関係の中で、話し、笑い、ときには傷つく、その時間に生まれている。
ひとりでしにたい:一人で生きるには、死後まで備えなければならないのか

ひとりでしにたい(2025)


『ひとりでしにたい』(2025)の山口鳴海(綾瀬はるか)は、伯母(山口紗弥加)の孤独死をきっかけに、自分の老後と死を考え始める。それまで独身で仕事を続ける伯母は、彼女にとって憧れの存在だったが、その最期を知ったことで、自分が選んできた暮らしの先にも、同じような死が待っているのではないかという不安に囚われる。
ここには、独身者の人生が最期の姿から遡って評価されてしまう怖さがある。一人で死んだと聞くと、まるで生きていた時間まで孤独だったようだ。鳴海が伯母に抱いていた憧れも、その死によって取り消されてしまうのか。
死への不安から結婚を考えることには、そんな切実な理由がある。具合が悪くなったときに気づいてくれる人がいる。帰宅を待つ相手がいる。そうした暮らしの安心は確かにある。
とはいえ、結婚すれば一人で死ぬ可能性がなくなるわけではない。自分の最期を引き受けてくれる人の確保として結婚を考えると、その相手の人生や、関係が変わる可能性が見えにくくなる。
こうして、鳴海の関心は婚活から終活へと移っていく。そこで見えてくるのは、死の問題が死ぬ瞬間だけにあるのではないということだ。老いてからどう暮らすのか。助けが必要になったとき、誰に相談できるのか。自分が亡くなった後に残るものを、どう扱ってもらうのか。先のことを考えはじめると、今の生活の中にも、確かめておきたいことが増えていく。
ただ、その備えを独身者の義務にしてしまうのはあまりにも窮屈だ。一人で暮らすのは自由だが、病気や老後にも備え、死後の片付けまで整え、誰にも迷惑をかけないようにする。そんな条件を満たして、初めて独身であることが認められるというのだろうか。
『結婚できない男』の桑野は人づきあいの難しさを、『私 結婚できないんじゃなくて、しないんです』のみやびは結婚相手としての振る舞いを評価された。本作の鳴海の場合、その評価は人生の終わりまで伸びてくる。今の暮らしがいくら楽しかろうが、将来への備えが足りなければ、考えが甘いと見なされる。独身者は、まだ訪れていない老いや死についてまで、説明を求められるのだ。
松浦寿輝が問い直した「自立した個人として充足することへの要求」は、ここでも考える手がかりになる。ただし、そのディスクールから終活の是非を直接導くことはできない。
本作から考えたいのは、備えるという実践が、いつ、自分の人生を一人で完結させる責任に変わるのかということだ。
自分で決めておきたいことはある。それでも、決めたとおりに老い、予定したとおりに死ぬことはできない。身体の変化や周囲の事情によって、必要な助けも変わるだろう。誰かに頼むこと、制度を利用すること、そのときになって考え直すことまで含めて、独身者の生活は続いていく。
備えとは、他者との関係を不要にするためにも、将来の迷惑をすべて精算するためにも、完成させられるものではないのだ。
鳴海が死について考える姿から見えてくるのは、むしろ、これからの時間をどう生きたいかという問いである。
私たちは、鳴海の伯母の死を失敗した独身者としてではなく、鳴海がまだ知らなかった生き方に目を向けるきっかけとして受け止めたい。
独身者の「居場所」は、自分の最期まで滞りなく処理できる人だけに与えられるものではない。
十分に準備できないことも、誰かの手を借りることもある。その可能性を残したまま、今の暮らしを続けていてもいい。
『ひとりでしにたい』は、タイトルの「死」の手前に、まだ長く広がっている生の時間を考えさせる。
独身者を「説明」しきらないこと
桑野に恋の訪れを期待し、みやびの「しない」という言葉の裏を探る。とわ子を取り巻く人々に安心し、鳴海の終活を見て自分も備えなければと思う。独身者の物語を見るとき、私たちはそれぞれの暮らしに触れながら、どこかでその人生を納得できる形に理解しようとしている。
結婚すれば、独身だった時間は、相手に出会うまでの道のりになる。結婚しなくても、一人の生活を楽しみ、仕事に打ち込み、親しい人に囲まれていれば安心できる。老後や死後まで準備されていれば、なおさらだ。
しかし、私たちの安心のために、独身者たちはそれほど多くのことを証明しなければならないのか。
松浦寿輝の独身者論を手がかりにすると、「欠如」という見方を退けた後にも、問いは残る。自立した人、自由な人、個性的な人といった独身者を肯定する呼び名もまた、その人のいる場所を決めつける枷になる。独身者に理解を示すつもりで、私たちは、自分が受け入れやすい独身者の姿を求めてしまったかもしれない。
桑野は一人の時間を楽しみながら、他者の言葉に心を動かされる。みやびの気持ちは「しない」という宣言からはみ出していく。とわ子の関係は離婚によって終わらず、家族という名前にも収まりきらない。鳴海は死を考えることで、これから生きる時間へ目を向ける。
彼らの生活が動くのは、最初から自分の望みを知り、そのとおりに生きられるからではない。思いがけない相手や出来事に出会い、自分についての理解まで変わってしまうからだ。
もちろん、現実の暮らしには、住む場所も、助けを求める相手も必要だ。その切実さを「どこにも属さない自由」という言葉で片づけることはできない。それでも、安心できる関係を持つことと、その関係によって自分が説明しつくされることは、同じではないだろう。
独身者の「居場所」を考えることは、その人にふさわしい席を探すこととは少し違う。
そこにいるために、一人で十分に幸せだと言いきる必要があるのか。誰かを求めることが、独身であることの限界を認めたとことになるのか。まず、その条件を問い直すことから始めたい。
誰かに会いたい夜にも、一人でいたい朝にも、同じ人の生活がある。そのどちらかを本音、もう一方を強がりなどと整理せずに、ただ見つめること。
独身者にどのような結末を求めるかという問いは、やがて、結末が訪れる前のその人の時間を、私たちはどれだけ見ているのかという問いにもなるのだ。


